石川啄木ゆかりの地


切通坂

春日通り天神下から切通坂を上る。


切通坂(きりどおしざか)

湯島三丁目30と四丁目6の間

 『御府内備考』には「切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を聞きし所なればいふなるべし。本郷三、四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり、」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。

 初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。

 映画の主題歌「湯島の白梅」“青い瓦斯灯境内を 出れば本郷切通し”で、坂の名は全国的に知られるようになった。

 また、かつて本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2−38−9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った道である。

  二晩おきに夜の一時頃に切り通しの坂を上りしも 勤めなればかな

石川啄木

−郷土愛をはぐくむ文化財−

文京区教育委員会

湯島天神を過ぎると、石川啄木の歌碑があった。


二晩おきに
夜の一時頃に切通しの坂を上りしも
勤めなればかな

歌の説明が書いてある。

 この歌は、石川啄木(1886〜1912)の明治43年(1910年)の作で、『悲しき玩具』に収められている。文字は、原稿ノートの自筆を刻んだ。

 当時啄木は、旧弓町の喜之床(現本郷2ノ38ノ9・新井理髪店)の2階に間借りしていた。そして一家5人を養うため、朝日新聞社に校正係として勤務し、二晩おきに夜勤もした。

 夜勤の晩には、終電車で上野の広小路まで来たが、本郷3丁目行きの電車はもう終わっている。湯島神社の石垣をまさぐりながら、暗い切通坂をいろいろな思いを抱いて上ったことであろう。

 喜之床での2年2か月の特に後半は、啄木文学が最高に燃焼した時代である。この歌は、当時の啄木の切実な生活の実感を伝えている。

 文京区内で最後に残っていた啄木ゆかりの家“喜之床”が、この3月18日に犬山市の博物館「明治村」に移築、公開された。

 昭和55年5月3日

−郷土愛をはぐくむ文化財−

文京区教育委員会

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