松平定信ゆかりの地


『退閑雜記』

 寛政12年(1800年)8月18日、松平定信は信達地方領地の巡視を兼ねて飯坂温泉を訪れた。

   〇飯坂紀行

予疝うれひて年ころなやみけり。飯坂の温泉に浴し侍らば驗功あるべしといふ。そのあたりは我しれるむら里のみにもあらねば、わたくしにも行かたし。よて朝へそのよしねぎたれば、忽ち御ゆるし蒙りける。いといたうありかたくて、はや旅の用意催したるが、白川の關ぢの月も見捨てかたく、名におふ望月の影、あくまて見侍りて、明の日たちいでんとはかりしなり。天道滿るをかくのことはりにや、望月の清光やゝもすれば狂雲さへきりて、詞客のなげきをのこすためし少からず。ことしはいかゞあらんと思ひたるに、朝よりうちくもりていとこまやかに降りいでたり。けふは樂などし興せんとおもひしが、いかゞし侍らんと思ふに、雨やみぬ。

日和田の里すぐる頃より空晴たり。安積山を見る。いたゞきに松一本たてり。のぼるべかりしが、道泥濘、こしより出るも物うくしく過ぬ。やまの井あるやまにはあらずといふ。されども往昔のあと、もとよりさだかならねば、いづれをそれともいひかたし。或人また安さか郡の内にあるとある山をば、皆安積山といふと。さは白川郡の川を、皆しら川といひ、宮城郡の野は、みなみやき野成べしや。さにても又あるまじ。二本松の驛にやどる。ひさご出してけふのつかれやすめんとて、かたみに詩つくり歌よむころ、月のさし入たるにぞ、戸おしひらきてみれば、一天殱塵なしともいふべく、空晴わたりたり。こたびの旅、又もあるべくかは、さればこの里の月、又見るべきかはとて、ともし火背けてみる。

   里の名の松の二本ふた夜とはみさる旅路の月そめつらし

月覊中友といふ事をよめと言ければ、

   ところこそ日毎にかはれかはらぬは旅路の空の古郷の月

   十八日

そら晴たり。又夜をこめてたちいづる。二里ばかんも行て夜は明たり。福島の里にては、忍ふ摺てふものを出す。このしのぶすりの事は、とし月心にかけて、物しる人にもとひ、又我見しものなども心にとめて覺えゐたれば、其かうかへかいつけて、側らのものへ見せたり。されどもわが説にてもあらず。

夕つかた飯坂へつく。温泉あしからず。されども庭狭小にして、居所もひろからず。此里雅地にあらず、のぞみに應じかたし。

   十九日

摺上川は、この里にあり。船をうかべて漁をみる。やうかはりておかし。向ふは土居何がしの領、湯のむらといふ山なり。いとけはしくして川にのぞむ。書けるが如し。こよひ月清らならば、又舟うかべて赤壁の樂しみに擬せんとはかりしに、陰りければ、東山若使清輝在、不滅子瞻望月遊、との望霽のこゝろをのべて、見せけるものあり。よて其ことかきして、

   君と臣も水と船との樂しみを心にかけて月をこそまて

とよみてやりける。又徒然なぐさめんとて、常盤木の大きなる枝に蔦のもみぢのかゝりたるを折てこしければかたはらにをきて、

   おくりこし情の露の深きにそ染し千人やつたのもみち葉

とよみたり。さるにまた草花を筒に入れ、おくりける人あり。こゝろはふかし。ふかきはよろこび侍りぬとかきて、

   我宿の秋の紅葉にくらべてはおくりし花は露の物かは

と言やりて此うた見侍らば、はしり出ぬべしと思ふに、出たりしかば、これぞとてそのもみぢみせしかば、かた見に笑ひ合りぬ。

このあたりに醫王寺とて佐藤氏の墓ある寺あり。我領にあらねども、けふはひる過る頃より我村々ありく道の行手なれば、立よりてかの忠義の二士の碑見んことを計りしなり。門へいれば右ひだり木立も茂りたり。雨さへもふりければ、露うち拂ひつゝ、しばらく行に、いとゞ老木立ならびたる中に、おほくの石碑あり。皆佐藤の一族也とぞ。中にも大なる碑二つたてり。これぞかの二士の碑といふをききて、

   ふみ分て昔しをとへば夕時雨つゆけき苔に跡ぞ見へける

   廿五日

陰る。安積山をみる。こゝらにあさかの沼あり。人をやりて、こもの根なんどとらせたり。これをなん花かつみと云侍るやと、たづねしかば、

   みちのくの淺かの花に生ふ草の名さへも今はかつ亂れけり

何の草をいふにしらず。されどもかつみは菰也といふ。花かつみとかつみは品かはりたるもの成べし。かつみ花咲侍らば、かつみの花とこそいふべき。花かつみといふは、かつみに似て花さくにてこそあるべき。

白河の關はいづ地にありしやしらず。今の奥野の境に、白坂宿に、玉津島の明神の社あるを、古關のあとゝいふはひが事なり。この道は豊臣家のひらきしみちとぞ聞ゆる。關山てふ山のふもと、旗宿村の道こそ關のあとなりけめ。

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