小栗上野介ゆかりの地
小栗上野介忠順終焉の地
高崎市指定 史跡 |
高崎市倉渕町水沼字中川原1616−3
小栗上野介忠順は、安政7年(1860年)1月日米修好通商条約批准書交換のため目付役として渡米し、帰国後、外国奉行・勘定奉行・兼陸軍奉行の要職につき、幕府の重鎮として活躍した。なかでも横須賀造船所の建設は彼の提唱によるもので、当時は東洋一といわれた。 慶応4年(1868年)、薩長等倒幕勢力に対し主戦論を唱えたがとり入れられず免職され、領地権田村に隠棲した。この頃、野州、武州一帯に起こった暴徒の一隊は、小栗が多額の軍用金を持ち帰ったというデマに踊らされて本村に襲来した。小栗方はこれを見事に撃退したが、これらの行動が「小栗は強力な兵力を持ち叛逆の企図あり」の虚言を生み、東山道総督府がそれを取りあげるところとなり、小栗介追討令が下った。 小栗は養子又一を高崎藩に遣わして他意のないことを開陳したが入れられず、遂に囚われの身となり、慶応4年閏4月6日(太陽暦では5月27日)、家来三人と共に水沼川原の露と消えた。時に42才であった。
高崎市教育委員会 |