伊能忠敬ゆかりの地

旧柴屋住宅



御手洗の街並み


旧柴屋住宅(呉市指定文化財)

 「柴屋」は、大長村(おおちょうそん)の庄屋役及び御手洗町の年寄役を代々勤めた高橋家の屋号である。

 高橋兄弟の弟政助が大長の本家に、兄種次が御手洗の別宅を所有していた。この別宅は2つに分かれていて、本建物が向座敷となっており、常盤通りを挟んで向かいが母屋であった。

 文化3年(1806年)に伊能忠敬が大崎下島・豊島の測量を行う際には、御手洗の町年寄柴屋が宿泊所に指定され、2月30日より3月3日まで滞在した。この時、測量の様子を描いた絵図が作成されて残されている。『伊能忠敬御手洗測量之図』(呉市指定文化財)その絵図の右側にこの向座敷を描かせている。文化7年(1810年)に広島藩八代藩主浅野斉賢(なりかた)が遊覧のため来島した際には、ここで休憩をとっており御手洗の本陣として利用されていた。

 兄種次は、文化6年(1809年)に大崎上島で製塩業を行なう。ところが、製塩業で失敗し、その借金の返済に目処がたたず、文化10年(1813年)に不動産一切を投げ出した。その中に向座敷も含まれていたが、高額のため買い手がつかないことと、御用に指し支えると言う理由で大長村・御手洗町で町用所(町役場)として買い取った。

 幕末に入り、大長村出身の菊本伝助が御手洗に進出した際買い取った。はじめは米穀問屋を営なみ、大正時代に入ると、船具・金物商に転じ、昭和50年代まで続いていた。御手洗地区では、現在でも「菊伝」の愛称で親しまれている。

 屋敷の形態は、主屋の裏に庭を配し、奥に土蔵を構える。主屋は間口4間、妻入り塗籠造り本瓦葺で土蔵を思わせる外観である。御手洗には、ほかにもこのように土蔵と似た造りの居宅が少なくない。間取りは通り庭に沿って「みせ」「中の間」「座敷」が一列に並ぶ形式を基本とし、部屋と土間のあいだに幅1間ほどの「あがりはな」が奥までのびる。御手洗でも数少ない大規模な町屋である。

御手洗測量之図


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