明治2年(1869年)8月9日、村上霽月は愛媛県伊予郡西垣生(現・松山市西垣生町)に生まれる。名は半太郎。 明治28年(1895年)10月7日、正岡子規は人力車で霽月邸を訪ねる。 |
霽月の村居に至る。宮に隣り松林を負ひて倉戸前いかめしき住居也 |
粟の穂に鷄飼ふや一構 |
明治28年(1895年)11月、上京中に根岸の子規庵を訪ねる。 明治29年(1896年)1月3日、高浜虚子は子規庵の初句会で村上霽月を知る。この日、夏目漱石、森鴎外も出席。 明治29年(1896年)3月1日、漱石と虚子が霽月を訪ねる。 明治29年(1896年)4月、高浜虚子は夏目漱石の第五高等校赴任を送り、宮島に遊び紅葉谷公園に泊まる。漱石は霽月に贈る句を虚子に托している。 |
松山より熊本に行く時 虚子に托して霽月に贈る〔一句〕 逢はで散る花に涙を濺(そそ)げかし |
明治32年(1899年)、村上霽月は3週間の九州旅行をする。10月31日、霽月は漱石宅を訪れた。 |
見るからに君痩せたりな露時雨 白菊に酌むべき酒も候はず
村上霽月「九州めぐり句稿」より |
大正14年(1925年)4月、足立彰功會は献灯碑脚句を造立。 |
昭和4年(1929年)、今出主婦会が鍵谷カナ頌功堂に霽月の句碑を建立。 |
昭和16年(1941年)、伊予市の鎌倉神社に夏目漱石の句碑を建立。村上霽月書。 |
木枯らしや冠者の墓撲つ松落葉 |
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蒲殿の以与以与悲し可連尾花 |
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(かばどののいよいよかなしかれおばな) |
霽月逝く 白髯を遺して君や春寒し
『草雲雀』(「鶏頭」より) |
昭和23年(1948年)2月、霽月の句碑を建立。霽月自筆。 |
昭和37年(1962年)11月、鹿島老人倶楽部は霽月の句碑を建立。 |
昭和39年(1964年)4月、霽月の句碑を建立。霽月自筆。 |
昭和46年(1971年)10月1日、生誕百年を記念して「霽月村上半太郎」の像を建立。 |
霽月村上半太郎翁は産業組合運動の先駆者農村経済振興に心魂を傾け共存共栄の精神を鼓吹終生貢献して功績絶大、また俳壇の巨星、高潔謹厳の哲人として一世の景仰を享く。生誕百年を記念しその威容を刻して不朽の遺徳を賛う。 |
昭和63年(1988年)4月、俳句の道に霽月の句碑を建立。 |
夜静渓声偏入戸 天陰月気浴籠花 |
春百里疲れて浸る温泉槽哉 |