亀田鵬斎ゆかりの地


三橋神社〜亀田鵬斉翁誕生之地碑〜

千代田町上五箇に愛宕神社がある。

愛宕神社の片隅に三橋神社があった。


三橋神社社殿


昭和53年(1978年)7月、上五箇縫製組合有志が伊勢大神宮参拝記念に再建。

三橋神社に「亀田鵬斉翁誕生之地碑」があった。


 龜田鵬斎は江戸時代後期の儒学者で、詩書画に秀でた三絶の書家である。名は初め翼、のち長興と改めるが、興と書くことが多い。号は鵬斎といい善身堂と称した。宝暦2年(1752年)10月4日、ここ千代田町上五箇に生まれ、江戸・下谷金杉で文政9年(1826年)3月9日・75歳で病没した。父は萬右衛門と称し、遁庵と号した。母は秀といい、山城(京都)の人である。

 生家は代々当地で農業を営んでいたが、鵬斎の父萬右衛門は、少年期より身を立て名を挙げようとし、20余歳のころ江戸に出て鼈甲職を習った。のち、諸国をめぐり京都に数年間住み、ここで某氏のすすめにより妻秀をめとった。懐妊中の妻をつれて故郷上五箇に帰り、生まれたのが鵬齋である。

 父遁庵は大いに喜び、決心して伝来の家屋敷・田畑を売り、わずかかの金を携え妻子をつれ再び江戸に出る。馬喰町の長門屋につとめ、そのうち店を譲られ繁盛したが、使用人の過ちによって破産してしまう。しかし遁庵は、苦しい生活の中で好学の鵬齋のため、6歳で書を三井親和に、14歳で学問を井上金峨に学ばせた。鵬齋は20余歳で塾を開き、同じ金峨門弟山本北山と折衷学を主張し、荻生徂来の学説と対立した。

 寛政2年(1790年)、幕府は朱子学を正学とし、その振興をはかり異学を禁じた。鵬齋は、異学の五鬼の筆頭として挙げられた。仕官の志を絶った鵬齋は、酒を好み、物事に頓着しない激しい気性で、どんな人の前でもおじけることがなかったという。

 26歳で結婚した妻佐慧を亡くした鵬齋は、越後・佐渡の旅で良寛和尚と会い、みみづ書き草書をきわめ、特に楷書草書を能した。また義気に富み、赤穂浪士のために金を投じ文を作り1碑を建てている。

 著者は『善身堂一家言』『大学私衡』『論語撮解』『画譜胸中山』文抄、詩鈔、他多数ある。なお故郷である当地には、龜田家菩提寺である瀬戸井・法生寺や下中森・宝珠寺の扁額、ここ愛宕神社・長良神社(下中森)の幟端等数多くの書跡が残されている。

 鵬齋の生家跡(誕生地)は、ここ上五箇の旧堤防近くにあったが、明治43年(1910年)の大洪水で決壊し、約200メートルほど北に移されて現在の堤防が築かれた。生家跡地は、河川敷地のため、現在地に「龜田鵬齋誕生の地碑」が建てられている。

千代田町教育委員会

亀田鵬斎は、一説に江戸神田生まれ。

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