旅のあれこれ


『江戸名所図会』 ・  ・ 

天保年間(1830〜1843)に斎藤月岑が7巻20冊で刊行。

巻之五 ・ 巻之六 ・ 巻之七

富岡八幡宮


深川永代島にあり。別当は真言宗にして、大栄山金剛神院永代寺と号す。(『江戸名所記』に、寛永五年の夏、弘法大師の霊示あるにより、高野山の両門主、碩学、その外東国一派の衲僧(なふそう)、この永代島に集会し、一夏九旬の間法談あり。別に、弘法大師の御影堂を建てゝ、真言三密の秘サク(※「臣」+「責」)を講ず。それより以後、神前に竜燈のあがる事ありと云々。)

園女桜


(永代寺林泉のうちにあり。正徳年間園女といひて、俳諧を好める婦女、これを植ゑたりといへり。歌仙桜とも名づく。今は枯れてわづかに存せり。その頃、三十六株(しゆ)ありしゆゑに、歌仙とは名けたりしとなり。

洲崎弁財天社


同所東の方洲崎にあり。別当を吉祥院と号す。本尊弁財天女の像は、弘法大師の作といふ。相伝ふ、元禄年間深津氏正隆台命を奉じ、八幡宮より東の方の海浜を築(つ)き立てゝ陸地とす。依つて同十三年庚辰護持院の大僧正隆光(字栄春、河辺氏。)この地に天女の宮居を建立すとなり。

この地は海岸にして佳景なり。殊更弥生の潮尽(しほひ)には都下の貴賎袖を連ねて、真砂の文蛤(はまぐり)を捜り、又は楼船を浮べて妓婦の絃歌に興を催すもありて、尤も春色を添ふるの一奇観たり。又冬月千鳥にも名を得たり。

採荼庵の旧跡


同所平野町にあり。俳諧師杉風子の庵室なり。杉風本国は参州にして杉山氏なり。鯉屋と唱へ、大江戸の小田原町に住んで魚售(なや)たり。後隠栖して一元と号す。(衰翁・衰杖等の号あり。)常に俳諧を好み、檀林風を慕ひ、のち芭蕉翁を師として、この筵に遊ぶ事凡そ六十年、翁常に興ぜられて云く、去来は西三十三箇国、杉風は東三十三箇国の俳諧奉行なりと。(かばかりのこの道の達人なりしなり。杉風一に芭蕉庵の号ありしが、後桃青翁にゆづれり。その旧地は次の芭蕉庵の条下に詳なり。享保十七年壬子六月十三日八十六歳にして沒せり。西本願寺の中成勝寺に塔す。)

『杉風句集』

   予閑居採荼庵、それがかきねに秋萩をうつしうゑて、
   初秋の風ほのかに露おきわたしたるゆふべ

白露もこぼれぬ萩のうねりかな
   はせを

   このあはれにひかれて

萩うゑてひとり見ならふやま路かな
   杉風

五本松


同所小名木川通り大島にあり。(或人云く、旧名女木三谷(をなぎさや)なりと。古き江戸の図にうなぎ沢とも書けり。『江戸雀』小奈木川に作る。又この地に鍋匠(なべつくり)の家ある故に、俗間字して鍋屋堀とよべり。) 九鬼家の構の中より、道路を越えて水面を覆ふ所の古松をいふ。(昔は、この川筋に同じ程の古松五株までありしとなり。他は枯れてたゞこの松樹(まつ)のみ今猶蒼々たり。)又この川を隔てゝ南岸の地は、知恩院宮尊空法親王御幽棲の旧跡なり。(同卷本所霊山寺の条下を合せみるべし。)

芭蕉庵の旧址


同じ橋の北詰、松平遠州侯の庭中にありて、古池の形今猶存せりといふ。 延宝の末、桃青翁、伊賀国より始めて大江戸に来り、杉風が家に入り、後剃髪して素宣と改む。又杉風子より芭蕉庵の号を譲り請け、夫より後この地に庵を結び、泊船堂と号す。(杉風子、俗称を鯉屋藤左衛門といふ。江戸小田原町の魚牙(なや)子たりし頃の簀(いけす※竹冠+禦)やしきなり。後この業をもせざりしかば生洲に魚もなく、自から水面に水草覆ひしにより、古池の如くになりしゆゑに古池の口ずさみありしといへり。)

国豊山回向院

両国橋の東話にあり。(昔はこの辺も柳島の中にして、大西と称したる由、『事跡合考』といへる冊子に見ゆ。)当寺は称念上人の遺風にして捨世一派の仏域たり。明暦三年丁酉の春大火の時焼死の輩(ともがら)の冥魂追福のため、毎歳七月七日大施餓鬼法会を修行す。又同八日仏餉施入の檀主現当両益の法事あり。総門の額に国豊山とあるは縁山定月和尚の筆なり。

宰府天満宮


亀戸村にあり。故に亀戸天満宮とも唱ふ。別当を天原山東安楽寺聖廟院と号す。司務兼宮司大鳥居氏奉祀せり。(当社別当は柳営御連歌の列に加へられ、毎歳正月十一日営中に至り、御連歌百韻興行す。)御旅所は当社の南竪川通り、北松代町四丁目にあり。(筑前国榎寺の摸しなり。薬師堂あり。八月二十四日祭礼の時、神輿をこの処に遷しまゐらす。)

普門院


善応寺と号す。同所一町ばかり東の方にあり。真言宗にして今大日如来を本尊とす。(慶安二年己丑、住持沙門栄賢博給の誉(ほまれ)あるをもつて、公命を得て寺産若干(そくばく)を賜はり、永く香燭の料に充(あて)しむとなん。)御腰懸松(堂前にあり。昔大樹御放鷹の砌(みぎり)、御腰をかけさせられしとなり。故にこの名あり。)

臥龍梅


同所清香庵にあり。俗間梅屋敷と称す。その花一品にして重弁(ちようべん)潔白なり。薫香至つて深く、形状宛(あたか)も竜の蟠(わだかま)り臥すが如し。園中四方数十(すじふ)丈が間に蔓(はびこ)りて、梢高からず。枝毎に半ばは地中に入り地中を出でゝ枝茎(しけい)を生じ、何(いづれ)を幹ともわきてしりがたし。しかも屈曲ありて自からその勢(いきほひ)を彰(あらは)す。仍つて臥竜の号(な)ありといへり。『梅譜』に、臥梅・梅竜などいへるにかなへり。

香取大神宮


同所二丁許乾の方にあり。(この地も昔は大平塚に等しく海にして、一の離れ島なり。亀の浮べるに似たりとて、旧名を亀津島と唱へたりといふ。)

本社 祭神 経津主命(下総一宮の神同体。)相殿 武甕槌命。(鹿島大神宮)猿田彦命。(大杉大明神)三坐。

当社は亀戸村草創よりの勧請にして、この辺第一の古跡なりといへり。(或説に当社は大織冠鎌足公の勧請なりといふ。)例祭は毎年六月十四日・十五日に修行す。旅所は吾妻森より二三十歩東の方田の中にあり。往古(そのかみ)祭礼を行はんとせし頃は、この辺なべて海面なりしかば、舂(うす)を流し、その止まるところをもつて旅所に定むべしと、誓ひたりしに、その舂かしこに止まりしとなり。ゆゑに、いまも昔の例により、僅(わづか)の間ながらも十間川に至りて神輿を船に移し、旅所へ神幸なしまゐらす。

西帰山常光寺


同所一丁あまり巽(たつみ)の方にあり。曹洞派の禅刹にして、橋場の総泉寺に属す。開山は行基大士、中興は勝庵最大和尚と号す。本尊阿弥陀如来の像は、則ち行基大士の作なり。(江戸六阿弥陀第六番目なり。)来迎松は仏殿の前に存せり。(中古火災の時、当寺の本尊火焔を出でゞこの樹上にうつりたまふといへり。)竜燈松は同じ左の方にあり。(時としてこの樹上へ竜燈揚るよしいへり。)毎歳二月八月の彼岸中参詣多し。

多田薬師堂


同所大川端にあり。玉島山明星院東江寺と号す。(天台宗東叡山に属す。惣門に掲(か)くる所の玉島山の額は、韓人雪月堂李三錫の筆なり。本尊薬師佛の像は恵心僧都の作にして、多田満仲公の念持仏なりといへり。(左右の脇壇に十二神将の像を置きたり。)

牛宝山最勝寺


明王院と号す。同所表町にあり。天台宗にして東叡山に属す。本尊不動明王の像は良弁僧都の作なり。当寺は牛御前の別当寺にして、貞観二年庚辰慈覚大師草創。良本阿闍梨開山たり。寛永年間大樹この辺遊猟の頃、屡(しばしば)当寺へ入御(じゆぎよ)あらせられしにより、その頃は仮の御殿など営構なし置かれたりとなり。(今も御殿跡と称する地に山王権現を勧請す。)

三囲稲荷社


小梅村田の中にあり。(故に田中稲荷とも云ふ。)別当は天台宗延命寺と号す。神像は弘法大師の作にして、同じ大師の勧請なりといへり。文和年間三井寺の源慶僧都再興す。慶長の頃迄は今の地より南の方にありしを、後この地に移せり。当社の内陣に英一蝶の描ける、牛若丸と弁慶が半身の図を掲けたり。

『五元集』

      牛島みめぐりの神前にて、雨乞するものにかはりて、

   夕立や田をみめぐりの神ならば
   宝晋齋其角

      あくる日雨ふる。

(社僧云く、元禄六年の夏大いに干魃(ひでり)す。しかるに同じ六月の廿八日、村人あつまりて神前に請雨(あまごひ)の祈願す。その日其角も当社に参詣せしに、伴ひし人の中に白雲といへるありて、其角に請雨の発句すべきよしすゝめければ、農民にかはりて一句を連ねて、当社の神前にたてまつりしに、感応やありけん。その日膏雨たちまちに注ぎけるとなり。その草は今も当社に伝へてあり。

宝寿山長命寺


遍照院と号す。天台宗東叡山に属せり。本尊は等身の釈迦如来、脇士は文殊・普賢・般若・十六善神等の像を安ず。

牛島弁財天(同じ堂内に安ず。伝教大師の作なり。)長命水(同じ堂の後ろの方にあり、一に般若水と云ふ。)延寿の椎(堂前にあり。寺の号(な)に因りて名づくるとなり。)

自在庵の旧址(堂の右竹藪の中にあり。俳諧師水国、こゝに庵室をむすびて住みたりといへり。今その地に芭蕉翁の句を彫りたる碑(いしぶみ)を建てゝあり。

いざさらば雪見にころぶところまで
   はせを

当寺昔はいさゝかの庵室なりしが、寛永年間大樹御遊猟の砌(みぎり)、少く御不予にあらせられしかば、この寺内に休はせたまひ、庭前の井の水をもて御薬を服し給ひしに、須臾にして常にならせ給ひしより、この井に長命水の号(な)を賜はり、寺の号(な)をも改むべき旨台命あり。爾来(しかりしより)長命寺と称す。(昔は常泉寺と云ひしなり。)殊更当寺は雪の名所(なところ)にして、前に隅田河の流をうけて、風色たらずといふことなし。

牛頭山弘福禅寺


牛御前官の東に隣る。この辺を須崎といふ。旧(もと)洲崎に作る。黄檗派の禅室にして洛陽万福寺を摸(うつ)す。本尊は唐仏の釈迦如来、左右は迦葉・阿難なり。開山鉄牛和尚、延宝紀元癸丑創造す。毎歳七月十五日大施餓鬼修行あり。

白髭明神社


隅田河堤の下にあり。祭神は猿田彦命なり。祭礼は九月十五日に執行(しゆぎやう)せり。別当は真言宗にして西蔵院と号く。相伝ふ。天暦五年辛亥慈恵大師関東下向の頃、霊示によりて近江国志賀郡打下よりこの地に勧請し給ふとなり。天正十九年に至り神領を附し給ふ。

梅若丸の塚


木母寺の境内にあり。塚上(ちようじやう)に小祠(こみや)あり。梅若丸の霊を祀(まつ)りて山王権現とす。(縁起に梅若丸は山王権現の化現(けげん)なりと云ふ。)後に柳を殖(う)ゑて、これを印の柳と号(なづ)く。(昔の柳は枯れて今若木を殖ゑそえたり。)例年三月十五日忌日(きにち)たる故に、大念仏興行あり。この日都下の貴賎群参せり。

関屋の里


牛田の辺(ほとり)をいふ。澄月の『哥枕』には武蔵国に入れたり。

   庵崎のすみだ河原に日はくれぬ関屋の里に宿やからまし

鐘が潭


同所隅田河・荒川・綾瀬川の三俣の所をさして名づく。(小田原北条家の所領役帳に、千葉殿とある所領の中に、下足立三俣といへる地名を加へたり。按ずるにこの地の事なるべし。)伝へ云ふ、昔普門院といへる寺の鯨鐘(かね)この潭に沈没せりとも、又橋場長昌寺の鐘なりともいひて、今両寺に存する所の新鋳の鐘の銘にも、この事を載(あ)げたり。何(いづれ)か是ならん。

中 川


隅田川と利根川の間に夾(せま)りて流るゝ故に、中川の号ありといへり。 荒川の分流熊谷の辺よりはじめて、遠く埼玉と足立との両郡の合(あひだ)を流れ、利根川の分流も川俣よりはじまり、二水猿が俣の辺にて合し、飯塚・大谷・亀有・新宿等の地に添ひて、青戸・奥戸(おうと)・平井・木下(きげ)川及び小村井・逆井を経て海に入る。 (猿が俣より末を中川と称し、上を古利根川とよべり。往古(いにしへ)水戸黄門光圀卿水府入部の頃、この中川の水中にして一の壺を得たまひしより、年々宇治へ詰茶に登せらせ、その器を中川と命ぜられたり。)

真光山善通寺


逆井渡口より八九町東の方、東小松川村にあり。一向宗西本願寺に属せり。本尊阿弥陀如来は来迎の像なり。相伝ふ。往古(そのかみ)千葉介太郎宗胤信の守本尊にして、宗胤没落の後、その家臣秋元刑部左衛門尉胤次と云ふ者これを伝へて、歳月(としつき)を歴たり。その後親鸞が家に止宿せられし頃、胤次上人の宗化(しゅうげ)に帰し、一室を営みこの本尊を安ず。然るに永正年間、兵火(ひやうくわ)に罹(かか)りて堂宇悉く焦土となりしかど、本尊は持ち退きて恙なしとなり。天下太平の時に至り終に一宇を闢(ひら)きて、善通寺と号(なづ)くといへり。(秋元刑部左衛門の子孫、今もこの村の中に四十有余軒存して、いづれも当寺の門徒たりといふ。)

帝釈天王


柴又村経栄山題経寺に安置す。(江戸より二里半。)当寺は寛永年間の草創なり。縁起に云(いは)く、当寺第九世日敬師在住の頃、堂宇大いに破壊す。師深くこれを嘆き、普く四方に行乞して、再興の志を励まし、終にその堂舎を造り改めんとする時、梁上よりこの板本尊を得たり。旧(もと)当寺に、高祖大士手刻の祈祷本尊と称するものある由、云ひ伝へし事の侍りしも、この時に至りて空しからぬを尊み、則ち本尊とすといへり。

松戸の津


常陸街道にして駅舎あり。『更級日記』に、鏡の瀬松里の津にとまりてとあるは、この地の事をいふならん歟。(『義経記』に、治承四年九月一日、武藏と下総の境なる松戸の庄市河といふ所に着き給ふとあり。むかしは松戸の庄の名にてありしならん歟。)

按ずるに、さの一字を略して末津土(まつど)といふならん。このたぐひ地名にその例多し。既に、下総埴生郡を土民中略して、波不(はふ)と唱ふるたぐひこれなり。

行徳船場


行徳四丁目の河岸なり。土人新河岸と唱ふ。旅舎ありて賑はへり。江戸小網町三丁目の河岸よりこの地まで、船路三里八町あり。この所はすべて房総・常陸(じやうりく)の国々への街道なり。

行徳八幡宮


本行徳三丁目道より右側にあり。別当は同所一丁目自性院兼帯す。この地の鎮守にして、毎歳八月十五日祭祀を行ふ。

神明宮


同所一丁目街道の左側にあり。この地の鎮守とす。別当は真言宗にして、自性院と号す。毎歳九月十六日を以つて祭祀の辰とす。その祭る所は伊勢内宮の土砂を遷して内外両皇大神宮を勧請し奉る。相伝ふ、当社昔は川向中洲と云ふ地にありしを、後にこの所へ遷すとなり。又この地を金海の森と号(なづ)く。慶長十九年庚寅、金海法印といへる沙門、この地に一宇の寺院を開創して金剛院と号す。依つて金海の森といふとぞ。(金剛院今は廃せり。)

按ずるに、『葛飾誌』といへる書に、行徳は金剛院の開山某、行徳の聞え高かりし故に、地名とする由記せり。

新利根川


『万葉歌』刀禰に作り、活字板『源平盛衰記』利根に作れり。)旧名を太井河といふ、(此号『更科日記』および『東鑑』等の書に見えたり。又『清輔奥義抄』に云く、下総国かつしかの郡の中に大河あり、ふと井といふ。河の東をば葛東の郡といひ、河の西をば葛西の郡といふとあり。証とすべし。私に云く、この河より西は葛西と称して、今武藏国に属す。

国府の城址


同所総寧寺より東の方をいふ。往古(むかし)国府五郎某なる人の居城なりしが、慶長に至り没収せらるゝとなり。

按ずるに、国府五郎は千葉介常胤の弟国府五郎胤道が事を云ふなるべし。その後裔の人この地に住し、慶長の頃まで居られたりしならん。同巻牛御前宮の条下にも、国府五郎の事を挙げ置きたり。てらしあはせてみるべし。

真間の継橋


弘法寺の大門石階(いしはし)の下、南の方の小川に架す所の、ふたつの橋の中なる、小橋をさしていへり、(或人いふ、古へは、両岸より板をもて中梁(なかはり)にて打かけたる故に、継はしとはいふなりと、さもあるべきにや。)

『万葉集』

   安能於登世受由可牟古馬母我可都思加乃麻末乃都芸波思夜麻受可欲波牟

『新勅撰』

   勝鹿やむかしのまゝの継橋をわすれずわたる春がすみかな   慈円

真間手児奈旧蹟


同所継橋より東の方百歩ばかりにあり。手児奈の墓の跡なりといふ。後世祠を営みて、これを奉じ、手児奈明神と号す。婦人安産を祷(いの)り、小児疱瘡を患(うれ)ふる類ひ、立願してその奇特を得るといへり。祭日は九月九日なり。(伝へ云ふ、文亀元年辛酉九月九日、この神弘法寺の中興第七世日与上人に霊告(れいこう)あり。よつてこゝに崇め奉るといへり。『春台文集』継橋記に手児奈の事を載せたりといへども、その説俚諺にして証とするに足らず。)

『清輔奥義抄』に云く、これは昔、下総国勝鹿真間の井に水汲む下女なり。あさましき麻衣を着て、はだしにて水を汲む、その容貌妙にして貴女には千倍せり。望月の如く、花の咲(ゑ)めるが如くにて、立てるを見て、人々相競ふ事、夏の虫の火に入るが如く、湊入りの船の如くなり。こゝに女思ひあつかひて、一生いくばくならぬよしを存じて、その身を湊に投ず。(中略)又かつしかのまゝのてこなともよめり。真間の入江、真間の継橋、真間の浦、真間の井、真間の野などよめる、みなこの所なり云々。

葛飾八幡宮


真間より一里あまり東の方、八幡村にあり。(常陸并びに房総の海道にして駅なり。鳥居は道ばたにあり。) 別当は天台宗にして八幡山法漸寺と号す。本地堂に阿弥陀如来を安置し、二王門には、表の左右に金剛・密迹の像、裏には多聞・大黒の二天を置きたり。神前右の脇に銀杏の大樹あり、神木とす。(この樹のうつろの中に常に小蛇栖めり。毎年八月十五日祭礼の時音楽を奏す。其時数万の小蛇枝上に顕れ出づ。衆人見てこれを奇なりとす。)

正中山本妙法華経寺


船橋街道の左側にあり。(この地を中山村といふ。)

日蓮大士最初転法輪の道場にして、一本寺なり。開山は日常上人、中興は日祐尊師たり。(『鎌倉大草紙』に云ふ、千葉介貞胤(さだたね)、父の宗胤(むねたね)三井寺にて討ち死にせし後、北国落ちまでは宮方にて、新田義貞の御供たりしかども、こゝろならず尊氏の味方になりぬ。弟胤貞は宮方にて千葉にありけるが、この人の子日祐上人は法花の学匠にて、下総国中山の法花経寺の中興開山なり。これによりて、胤貞より中山の七堂建立ありて五重の塔婆をも建てらる。その後胤貞上洛して吉野へ参り、西征将軍の宮の御下向の時、御供して九州へ下り、大隅守に補任し、肥前国をも知行しけり。日祐上人も九州に下向し、肥前国松王山を建立して、総州の中山を引き、末代までこの所を中山と南山一寺と号す」とあり。)

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