旅のあれこれ


『江戸名所図会』 ・  ・ 

天保年間(1830〜1843)に斎藤月岑が7巻20冊で刊行。

巻之五 ・ 巻之六 ・ 巻之七

金龍山浅草寺


伝法院と号す。坂東順礼所第十三番目なり。天台宗にして、東叡山に属せり。

按ずるに、『東鑑』に、建久三年壬子五月八日、法皇四十九日の御仏事百僧供を修せらるゝと、その条下に、僧衆の中浅草寺よりも三口とあり。又同書に、建長三年辛亥三月六日、浅草寺へ牛の如きもの忽然と出現し奔走す。時に寺僧五十口ばかり食堂に集会する所に、件の恠異(けい)を見て、廿四人立ち所に病痾を受く、七人即座に死するよしを記せり。寺僧五十口ばかりとあるときは、往古も猶大伽藍なる事をしるべし。永禄二年小田原北条家の分限帳に、浅草寺家分四拾貫九百文を附せらるゝよし出でたり。

石枕(坊中東中谷明王院にあり。庭中に小さき池あり。これを姥が池と号す。また当寺の什宝にこの石の枕あり。伝説は、文明年中道興准后『回国雑記』に出でたる文章をこゝに記す。頗る俗伝と異なり。旧記たるをもつて、左に挙げてその伝へ来る事の久しきをしらしむ。)

『回国雑記』

この里のほとりに石枕といへるふしぎなる石あり。その故を尋ねければ、中頃の事にやありけむ、なまさぶらひ侍り、娘を一人持ちはべりき。容色おほかたよのつねなりけり。かの父母娘を遊女にしたて、道ゆきひとに出でむかひ、かの石のほとりにいざなひて、交会のふぜいを事としはべりけり。兼てよりあひづの事なれば。折をはからひてかの父母枕のほとりに立ち寄りて、ともねしたりける男のかうべをうちくだきて、衣裳以下の物を取りて、一生を送り侍りき。さるほどにかの娘つやつや思ひけるやう、あなあさましや、幾程もなき世の中に、かゝるふしぎの業をして、父母もろともに悪趣に墮して、永劫沈淪せん事のかなしさ、先非に置きては悔いても益なし。これより後の事さまざま工夫して、所詮我父母を出しぬきて見んと思ひ、ある時道行く人ありと告げて、男の如く出で立ちて、かの石に臥しけり。いつもの如く心得て頭を打ちくだきけり。急ぎ物ども取らんとて引きかづきたる衣をあけて見れば、人独りなり。あやしく思ひてよくよくみれば我娘なり。心もくれまどひてあさましと云ふばかりなし。夫よりかの父母すみやかに発心して、度々の悪業をも慙愧懺悔して、今の娘の菩提をも深くとぶらひはべりける、と語り伝へけるよし、古老の人申しければ。

  つみとがのつくる世もなき石枕さこそはおもき思ひなるらめ

当所の寺号浅草寺といへる。十一面観音にてはべり。たぐひなき霊仏にてましましけるとなん。下略。

雷神門


当寺南の総門なり。左右に風雷の二神を安置す。明和の回禄に罹(かか)りて烏有となりしが、寛政の今再建ありて昔に復せり。)

額 金龍山 曼珠院二品良尚親王の真蹟。

駒形堂


駒形町の河岸にあり。往古は此所に浅草寺の総門ありしといふ。(その頃は左右並木にして、桜花数株を植ゑまじへ、春時は殊更ながめも深かりしにや。寛永二十年の印本『東めぐり』といへる書に、駒形堂の近辺、並木の桜花爛漫たるよしをしるせり。)本尊は馬頭観音なり。『浅草寺縁起』に、天慶五年安房守平公雅浅草寺観音堂造営の時、この堂宇も建立ありしよしを記せり。(祈願ある者賽(かへりまうし)には、かならず駒の形を作り物にして堂内へ奉納す。故に駒形堂と唱へ、地名もまたこれに因つておこる。)この堂の傍に浅草寺領内殺生禁断の碑あり。

銀杏八幡宮


同所福井町にあり。伝へ云ふ、当社は永承六年源頼義朝臣、同じく義家朝臣、奥州下向の時こゝに至りたまふに、河上より銀杏の木の流れ来るあり。則ち義家公手づから地にさし、誓つて曰く、朝敵退治勝利あらばこの樹すみやかに枝葉を栄うべしとなり。遂にその軍(いくさ)勝利ありて凱陣の時、ふたゝびこゝに至り給ふに、枝葉栄えければ、八幡宮を勧請し給ひしとぞ。その昔は八幡塚と唱へけりとなん。神木の銀杏樹は、延享二年の秋暴風に吹き折られて、今わづかにその古株を存せり。

篠塚稲荷社


当地の旧社なり。(往古この所を茅原の里と云ふよし社伝に云へり。)昔新田の家臣篠塚伊賀守当社を信仰し、晩(のち)に入道して社の側に庵室を結びて住す。別当玉蔵院はその裔孫なりと云へり。

鳥越明神社


元鳥越町にあり、この辺の産土神(うぶすな)とす。祭神日本武尊、相殿天児屋根命(あめのこやねのみこと)なり。(昔は第六天神・熱田明神を合せて鳥越三所明神と号(なづ)けしが、正保二年この地公用のため召し上げられ、三谷にて替地を給ひ、わづかに社の地ばかり残さる。その頃より熱田は三谷の地へうつし、第六天は森田町へうつせしといえへり)当社は最も古跡なれども、旧記等散失して勧請の年暦・来由等詳(つまびらか)ならずといへり。祭礼は隔年六月九日なり。

東本願寺


新堀端大通りにあり。開山教如上人、その先本山の住職たりしを、豊臣家のはからひとして、順如上人(教如上人の舎弟なり。)を本寺の門跡に定められ、教如上人をば故なく退隠せしめ、裏屋敷に置かれしを(この故に東門跡をば裏方とはいへり。)神祖竟に召し出だされ、開山上人の真影を御寄附ありて、六条室町の末にて新たに御堂屋敷を下し賜はる。夫(それ)より後、東西とわかる(その後江戸にて末寺建立あり度(たき)由訴へ、則ち神田にて寺地を拝領す。一宇を建てて京都よりの輪番所となり、江戸中の門徒を勧化す。その地いま昌平橋の外、加賀屋敷と唱ふる所なり。明暦の後今の地に移されたり。)当寺は朝鮮人来聘の砌(みぎり)に旅館となる。

立花会(毎年七月七日興行す。参詣の人に見物を許す。)開山忌(毎年十一月二十二日より同廿八日までの間、読経・説法等あり。俗にこれを御講(おかう)と称す。一に報恩講ともいふ。そのあひだ門徒の貴賎群参せり。)

五条天神宮


東叡山の巽の麓、瀬川氏の地にあり。祭神(まつるかみ)少彦名命一坐。(本朝医道の祖神にして、五条天神と称す。)北野天満宮を相殿とす。(菅神の像は、寛永十八年慈眼大師開眼ありて当社の相殿に鎮坐せしむ。)当社はじめは東叡山のうちにありしが、寛永寺草創の砌(みぎり)、御連歌師瀬川昌億が宅地に遷させらる。(菊岡沾涼いふ、その旧地は上野本坊の辺(あたり)なりしと。)毎歳節分の夜、白朮神事(よをけらのしんじ)を修行す。

時雨岡


同所庚申塚といへるより三四丁艮の方、小川に傍うてあり。一株の古松のもとに、不動尊の草堂あり。土人この松を御行の松と号く。来由は姑(しばら)くこゝに省略(もら)す。(一に時雨の松ともよべり。)

『回国雑記』

   忍ぶの岡といへる所にて、松原のありけるかげにやすみて、

霜の後あらはれにけり時雨をば忍びの岡の松もかひなし 道興准后按ずるに、忍の岡といへるは東叡山の旧名なり。この地も東叡山より連綿たれば、『回国雑記』に出づるところの和歌の意を取りて、後世好事の人の号けしならん歟。

東陽山正燈寺


竜泉寺町にあり。妙心寺派の禅刹にして、承応三年に愚堂和尚草創す。(和尚は大円宝鑑国師と諡号(おくりな)す。天性明敏にして大いに禅海の浩濤を皷起す。宝鑑国師の語録につまびらかなり。)当寺の後園楓樹多し。(その先山城高雄山の楓樹の苗を栽ゆると云ふ。)晩秋の頃は、詞人吟客こゝに群遊しその紅艶を賞す。

熱田明神社


新鳥越にあり。祭る所日本武尊一坐なり。当社は往古(むかし)元鳥越の地にありしが、正保年中今の所に移れり。例祭は隔年六月十五日執行(しゅぎょう)す。

熊野権現社


同北の方千住川の端にあり。祭神伊弉冊尊一坐。社殿に云く。永承年中義家朝臣奥州征伐の時、此地(ここ)に至り河を渡らんとするに、奇異の霊瑞あり。故に鎧櫃に安ぜし紀州熊野権現の神幣(みてぐら)を、この地にとゞめて熊野権現と斎きたてまつるといへり。

按ずるに、熊野権現・飛鳥明神、何れも紀州に鎮坐あり。又この地に両社あるも、所謂(いはれ)あるべきことなれども、今伝記とりどりにして詳なることを得ず。余説を設けんと欲(す)るといへども、しげきをいとひてこゝに略す。

千住の大橋


荒川の流に架す。奥州街道の咽喉なり。橋上の人馬は絡繹として間断なし。橋の北一二町を経て駅舎あり。この橋はその始め文禄三年甲午九月、伊奈備前守奉行として普請ありしより、今に連綿たり。

八幡宮


六月村にあり。別当を炎天寺と号す。伝へ云ふ、八幡太郎義家朝臣奥州征伐の時、この国の野武士ども道を遮る。その時六月炎天なりければ、味方の勢労れて、戦はんとする気色もなかりしにより、義家朝臣心中に鎌倉八幡宮を祈念ありしかば、不思議に太陽繞(めぐ)るが如く光りを背に受けければ、敵の野武士等日にむかふ故に眼(まなこ)くらみ、大いに敗北しぬ。依つてこの地に八幡宮を勧請ありしとぞ。この故に村を六月といひ、寺を炎天と称し、又幡正山と号すとなり。

橋 場


今神明宮の辺より南の方今戸を限り、橋場と称す。旧名は石浜なり。(『事跡学考(がつかう)』にいはく、石浜の地今は汐入と唱ふると云々。)『義経記』に、治承四年庚子九月十一日(『東鑑』に、「同年十月二日頼朝太井(ふとゐ)・隅田の両河を渡らるゝとあり。太井は刀禰川の事にて、『更級記』にも出でたり。)頼朝公隅田河を越えて、下総国より武蔵国へ赴き給ふ時、二三日の雨に洪水岸を浸し、軍勢を渡し兼たりければ、武衛江戸太郎重長に仰せて浮橋を係(か)けしめむとす。重長あへて諾(うけが)はず。依つて千葉介(常胤)・葛西兵衛(清重)両人江戸太郎を助けんとて、知行所今井栗川かめなしうしまとふより(栗川かめなしうしまと共に詳(つまびらか)ならず。)海人(あま)の釣舟を数多(あまた)登せ、江戸太郎が知行所なりける石浜に、折節西国船の着きたるを数千(すせん)艘集め、三日の内に浮橋を組みてければ、佐殿(すけどの)神妙なるよし仰せられ、太井・隅田を打ち越えて板橋に着き給ふとあり(隅田河古(いにしへ)海につゞき、海村(かいそん)なりし事は、『義経記』の文義にてもしるべし。)

朝日神明宮


橋場にあり。石浜神明とも、(或人の説に、この地に神明宮ある故に、上古(むかし)伊勢浜と唱へしと云々。)或いは俗に、橋場神明とも号(なづ)く。祭神伊勢に同じく内外両皇太神宮を斎(いつ)きまつる。社伝に云(いは)く、人皇四十五代聖武天皇の御宇、神亀元年甲子九月十一日鎮坐と云々。

浅茅原

総泉寺大門のあたりをいふ。

『回国雑記』

      浅茅がはらといへる所にて

   人めさへかれて淋しき夕まぐれ浅茅がはらの霜を分けつゝ

道興准后

采女塚


(同所にあり。(寛文の頃、吉原町にうねめといへる遊女はべりしが、故ありて夜にまぎれてこゝに来り、池中に身をなげてむなしくなりぬ。夜明けてのち、あたりの人こゝに来りけるに、かたはらの松に小袖をかけて、一首の歌をそへたり。

   名をそれとしらずともしれ猿沢のあとをかゞみが池にしづめば

かくありしにより采女なる事をしりければ、人あはれみて塚をきづけるといへり。)

聖天宮


真土山にあり。別当は、天台宗金龍山本龍院と号く。伝へ云ふ、大同年中の勧請にして、江戸聖天宮第一の霊跡なりといへり。(『和漢三才図会』『江戸鹿子』等の書に、斎藤別当実盛深く尊信の霊像なりといへり。)

弁財天祠(山の麓、池の中島にあり。平政子崇尊の霊像なりといへり。)この所今は形ばかりの丘陵なれど、東の方を眺望すれば、墨田河の流れは長堤に傍うて容々たり。近くは葛飾の村落、遠くは国府台の翠巒(すゐらん)まで、ともに一望に入り、風色尤も幽趣あり。

巻之七

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