旅のあれこれ


『江戸名所図会』上 ・  ・ 

天保年間(1830〜1843)に斎藤月岑が7巻20冊で刊行。

巻之一 ・ 巻之二

品川の駅


江府の喉口にして、東海道五十三駅の首(はじめ)なり。日本橋より二里。南北と分つ。(東海寺の南に傍(そ)ひて貴船の社の側(そば)を流るゝ川を堺とす。或る人云く、これ則ち品川と称する所の水流なりと云々。)旅舎数百戸軒端を連ね常に賑はしく往来の旅客絡繹(らくえき)として絶えず。

海照山品川寺


同所南に隣る。普門院と号す。真言宗にして京師(みやこ)三宝院に属す。開山は権大僧都弘尊法印と号せり。本堂 本尊聖観世音菩薩(海中より出現ありし閻浮檀金(えんぶだごん)の霊像にして、弘法大師の念持仏なりといへり。世に水月観音と称へ奉る。この霊像の利益感応のすみやかなる事は、あたかも月の水に影をやどすがごとくなりといふこゝろを以つて、かく号くるとなり。)薬師堂(中門の左の方にあり。本尊薬師並びに十二神将の像を安置す。弘法大師作なり。)紫銅地蔵尊(門を入りて左の方にあり。石を畳みて台座を設く。宝永五年戊子沙門正元坊建立する所にして、江戸六地蔵の一員なり。)

補陀山海晏寺


同所一町ばかり南、海道の右にあり。曹洞宗の禅宗にして、三田の功運寺に属す。北条相模守平時頼朝臣の開基として、大覚禅師を開山と称し、古山和尚を第二世とす。天叟慶存和尚、慶長元年丙申、当寺を再興して中興となる。(慶存和尚は松平因幡守康元の子なり。天正御入国の頃、三州より召され当寺を賜ふ。旧(いにしへ)は臨済宗なりしを、この時より今の如く洞家に改められしとなり。)

海賞山来福寺


砂水御林町(さみづおはやしまち)にあり。真言宗にして、本尊に地蔵菩薩を安置す。弘法大師の作(御丈九寸八分)なり。梶原氏の草創にして則ちこの地はその宅地なりしとなり。縁起に云ふ、この本尊は、梶原氏代々その家に伝へて尤も霊威なり。然るに元亨の頃、智弁と云ふ沙門、眼疾を患ひ、この本尊に祈念して不日に本快を得たり。その後世の中大いに乱る。爾(しか)るに本尊の所在しれざりしに、文亀年間、梅巌阿闍梨当寺より四五町西の方経塚といへる地にしてこれを感得せしとなり。

六郷の渡


八幡塚の南にあり。この川は多摩川の下流にして、八幡塚より河崎の駅への渡しなり。昔は橋を架せしが、享保年間田中丘隅といへる人の工夫により、洪水の災を除かん為に、橋を止めて、船渡にせしとなり。

河 崎


六郷渡口より向うの方にあり。東海道官駅の一ツにして、行程品川より二里半、駅舎数百軒整々として両側に聯(つら)なる。

鶴見川

海道に架(わた)す所の橋の号も又鶴見橋と呼べり。(長さ二十七間。)水源は多摩郡小野路・都築郡長津田・橘樹郡馬絹の辺より発して、恩田川・早淵川・矢上川・鳥山川・佐江戸川の川々落合ひ、鶴見村に至る。故に鶴見川の号あり。『梅松論』に、元弘三年五月十四日鎌倉方討手として武蔵守貞将(さだまさ)大将にて向ふ。下総よりは千葉介貞胤(さだたね)、義貞と同心の義有つて攻め上る間、武蔵の鶴見の辺に於て戦ひ、打負けて引き退くとあり。

金沢山称名寺


町屋村にあり。弥勒院と号す。真言律にして南都の西大寺に属す。当寺は亀山帝の勅願所にして、北条越後守平実時の本願、その子顕時の建立なり。(実時を称名寺と号け、又法名を正慧といふ。この地に居住せらる。顕時より金沢を家号とす。顕時、法名を慧日と号す。霊牌に弘安三年三月二十八日に卒すとあり。)

『江戸名所図会』 

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