大町桂月ゆかりの地


大町桂月旧居跡

 東京メトロ有楽町線護国寺駅を降りて不忍通りを行き、首都高5号池袋線の下を抜ける。清戸坂(きよとざか)を上る途中で路地に入ると、大町桂月旧居跡の案内がある。


大町桂月旧居跡


大町桂月旧居跡

文京区目白台3−22−17

 大町桂月(1869〜1925)、明治・大正期の文芸評論家・詩人・随筆家・国文学者。

 明治26年(1893年)東京帝国大学に入学し、在学中から『帝国文学』の編集にあたり、かたわら新体詩や評論を発表する。特に『黄菊白菊』『筆のしづく』『わが文学』などの主著がある。雑誌『太陽』や『中学世界』などに毎号、評論・紀行文をのせ、青少年の教養向上につくした。

 桂月はまた酒と旅を愛し、全国をめぐり、多くの紀行文を書き、その第一人者となった。その足跡は、韓国、中国にもおよんだ。

 大正14年(1925年)、桂月は青森県蔦温泉で没したが、人間味あふれる生涯で、人生のわび・さびを語り、人柄がしのばれる名文家であった。

 文京区とのゆかりは明治28年(1895年)頃、小石川原町に居住して以来のことで、この地は明治42年(1909年)から没年までの住居地であった。

−郷土愛をはぐくむ文化財−

文京区教育委員会

 大町桂月旧居跡の案内の下に表札が小さく「大町」と書かれていた。大町桂月の末裔がそのまま住んでいるのかも知れない。

この辺りは目白台というだけに、高台である。

 文京区の旧町名案内によれば、昭和41年までの町名は雑司ヶ谷町であったそうだ。

 延享3年(1746年)町方支配となり、雑司ヶ谷の町名がつけられた。町名の由来については、いろいろな説がある。

 昔、小日向の金剛寺(また法明寺とも)の支配地で、物や税を納める雑司料であった。

 また、建武のころ(1334〜36)、南朝の雑士(雑事をつかさどる)柳下若狭(やぎしたわかさ)、長島内匠などがここに住んだので、雑司ヶ谷と唱えたという。

 その後、蔵主ヶ谷、僧司ヶ谷、曹司ヶ谷などと書かれたが、8代将軍吉宗が鷹狩のとき、雑司ヶ谷村と書くべしとの命があり、今の文字を用いたという。

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