大町桂月ゆかりの地


大町桂月の紀行文

 瀑布は西の那智と東の華厳とが両大関なるべし。富士の裾野の白糸滝は、高さ数丈に過ぎざれども、幅は百八間に及ぶ。幅の広きことは日本一也。

「日本の山水」

白糸の滝


人若し余に北海道の山水を問はば、第一に大雪山を挙ぐべし。次に層雲峡を挙ぐべし。大雪山は頂上広くして、お花畑の多き点に於て、層雲峡は両崖の高く且つ奇なる点に於いて、いづれも天下無双也

「北海道山水の大観」(層雲峡)

 東北海道にて名山を求むれば、先づ阿寒嶽は雌雄の二嶽数十町を隔てゝ、東西に対峙す。東は雄阿寒、西は雌阿寒、高さは凡そ五千尺、雌阿寒が少し高し。雄阿寒は孤峯孤立して、満山樹木を帯ぶ。雌阿寒は群峯簇立し、頂上広くして数個の噴火口あり。熾に烟りを噴く。上部は樹木なくして、高山植物に富めり。南側に阿寒富士突起して、完全なる円錐形を成す。雌雄阿寒の間、否、近く雄阿寒に接して、阿寒湖あり。

「北海道山水の大観」(阿寒湖)

 地獄谷より西北に小山一つ越ゆれば、湯沼とて、大小二つ相接す。小沼は数間四方、大沼は一町四方、いづれも三百度の熱泉なるが、硫黄の量多くして、其色黒し。

「北海道山水の大観」(登別温泉)

 北海道の山嶽は中央に於て最も傑出し、大雪山之を代表す。東部にありては阿寒嶽最も傑出し、西部にありては蝦夷富士最も傑出す。大雪山に登らば北海道の大体を知るを得べく、阿寒嶽に登らば、其東半面を知るを得べく、蝦夷富士に登らば、その西半面を知るを得べし。

「北海道山水の大観」(蝦夷富士)

 周回七里の大沼と、周回五里の小沼と相連りて、其の中間に汽車通ず。大沼駅に下りて、西すれば小沼に出て、東すれば大沼に出づ。小沼は静にして、鹿さへ住めり。大沼は賑かにして、運動場に充つべき広場あり。旅館崖上に拠りて、波に俯し、売店軒を並べ、大小数十の遊覧船、浜に充つ。島多く、従つて陸より島へ、又島より島へ架する橋多く、その橋変化を極め、雅致を尽せり。陸に大山元帥の銅像立ち、島に東郷元帥の銅像立てり。沼の彼方に駒ヶ嶽偉大にして有力なる背景を成す。少くとも大沼の美の一半は駒ヶ嶽に帰する也。

「北海道山水の大観」(大沼公園)

大沼公園


 五稜郭は安政年間、幕府の造りたるものにて、武田斐三郎の設計に係る。日本無類の城郭也。瀑布の函館奉行の守る所なりしが、維新の際、将軍の大政奉還と共に、朝廷に帰し、函館府知事之を守りしに、釜次郎の幕府奪ひて之に拠り、官軍を拒ぎて、終に降りける也。碧血碑函館山の東麓に存して、碧血今は跡なく、函館市民の遊園地となりて、五稜郭の名氷の名世に高し。

「北海道山水の大観」(五稜郭)

 登別は山中の温泉也。湯川は野の温泉也。兼ねて海の温泉也。定山渓は渓間の温泉也。三温泉それぞれ特色あり。定山渓は一番寂しき代りに、嵐気人に逼る。札幌より六七里、定山渓の札幌に於けるは、猶ほ湯川の函館に於けるが如し。十数の楼台直に豊平川の渓流に接す。水清くして、断崖深く且つ奇也。

「北海道山水の大観」(定山渓温泉)

 狩太駅よりすれば八九里、室蘭よりするも八九里にして、洞爺湖に達すべし。円形を成して、二里半四方、沿岸に出入なく、部落散在す。南に近く有珠山、双耳を欹て、北に稍遠く蝦夷富士秀色を送る。中心に中島とて周囲二里ばかりの島山あり。風致を添へ、その中島の南に近く、観音島、饅頭島などありて、益々風致を添ふ。中島の頂上には観音堂さへあり。海を距ること一里に過ぎざるに、この偉大なる山湖あるは、亦珍とすべき也。

「北海道山水の大観」(洞爺湖)

 汽車は神居古譚の右岸に通ず。汽車中よりは左岸の山は見えて、右岸の山見えず。左岸の山はさばかりの事なきが、右岸の山は危峯突起して、巨巌を帯ぶ。春の桜、秋の紅葉、鉱泉さへもありて、旭川市民にとりては、唯一の遊楽地也。釣橋をわたりて十数町行けば、石狩河に沿ひて、数十の縦穴散在す。一二間四方、若しくは二三間四方、大小一ならず。コロポツクルの遺跡なりと称す。コロポツクルとは、蕗の葉の下の人の義にて、短小なる人種を意味す。アイヌ即ち旧土人以前に、北海道に住みたる人種なりとかや。

「北海道山水の大観」(神居古譚)

 余市より一里にして、神威岬に達す。高き岬角の上に、燈台あり。岬より暗礁続き、崛起して神威巌となる。高さ数十丈、恰も海神の立てるが如し。暗礁なほ続き、処々波上に露はれて、数十町の外に達し、北海道の海を両断す。これより北に怒濤躍る時、南は穏波畳の如く、南に狂浪巌を噛む時、北は一碧天に連る。

   忍路高島及びもないが、せめて歌棄磯谷まで

 昔この神威岬より北に、女人の行くことを禁じたりければ、この俗謡も出でたる也。忍路高島は神威岬より北に在り。歌棄磯谷は南にありて、女人なほ行くことを得たりし也。

 積丹半島の北面、岸に近く女郎子巌立てり。女人の裾を引けるが如し。蝋燭巌も立てり。剣の如し。いづれも高さ数十丈、神威巌と共に積丹半島の三巌と称すべし。実に天下の珍也。

「北海道山水の大観」(神威岬)



大町桂月の文学碑


   一沼に馬むれ十里尾花かな

 東北本線の野辺地駅より乗換へて、田名部に行く途中、左は野辺地湾、右は一面の草原、四つ五つ駅はあれども、人の里らしからず。木柵長く続きて、放牧の馬、秋に肥えたり。恐山一帯の郡山、島かと見えしが、陸続きにて、いつしか釜伏山下に達し、田名部に宿す。維新の昔を思ふも憐れや、若松城陥ると共に、二十三万石の会津の藩主、僅か三万石に減ぜられて、茲に斗南藩を開きける也。

「恐山半島の大断崖」(田名部)

 自動車は大間に果てたり。村役場もあれば、宿屋もあり。大間崎とて、平かなる陸嘴、草花を帯びて、長く延び、少し離れたる島に、燈台立てり。函館山近く数里の外に見ゆ。維新以前は、こゝより函館に渡りしが、今は青森よりして、航路三倍も延びける也。

「恐山半島の大断崖」(大間崎)



 郡場博士は三十五六歳に見ゆ。色黒く、口しまり、精悍の気、眉宇の間にほとばしる。軍服つくれば、乃木大将の再生かと思はるゝ顔付きなり。天候悪きが為に大岳に上る能はず。時間を持たぬ未醒画伯の神代氏と共に失望して山を下るを、途中まで送り、別れて嫦娥渓を見物す。危険なればとて、勇者のみをえらび、郡場博士導をなし、鹿内氏輜重を司どる。崖高く、谷深く、緑葉殆んど天を掩ひつくさんとす。

   谷青葉の合ひ兼る空や雲走る

 聞きしにもまして、危険なり。急湍を幾度も徒渉せざるべからず。巌より巌へ飛ばざるべからず。懸崖を蝸付(かふ)して過ぎざるべからず。郡場博士は一向平気にて、好景色にあふごとに撮影しては一行を導き、矯捷(きょうしょう)にして、余裕綽々たり。この渓の特色ともいふべきは、安山岩の柱状をなせるにあり。左右の懸崖の下、渓に延びて、犬牙錯綜せる所、石柱列をなし、幾重にもかさなりて、造化の奇を弄すること茲に到れるかとおどろかるゝばかりなり。石柱くづれて、かさなり合へるところより、鹿内氏四寸角の七尺ばかりなる石柱を取り出して肩にす。如何に力強ければとて、宿までは持ちゆかれまじと思ふ程に、奔湍(ほんたん)の上に至り、巌より巌にかけて、自ら渡り、予をも渡らしめて、微笑す。すつるにすてかねしに、はばからずも利用することを得たるなり。

 今一つこの渓の呼び物は獅子巌なり。弧巌渓中に立ちて、如何にもその名に負かず。灌木自ら鬣(たてがみ)となりて、渓風になびき、渓声代はつて獅子吼をなす。嫦娥渓の区域、凡そ一里、沼多く、お花畑多き八甲田も、この渓に気骨を発揮して、人を威圧するなり。




 日本武尊の御墓より白鳥飛び出せりとは、書物の上に知れるのみにて、今の世、内地にては、実地に白鳥を見るに由なきが、唯一箇所あり、陸奥の小湊これ也。

 東北本線を取りて野辺地駅を過ぐれば、右に野辺地湾を見る。小湊駅に下り、小湊の小市街を過ぎて、駅より凡そ一里ばかりの処に、雷電橋かゝる。こゝは汐立川の野辺地湾に入らむとする処也。橋を渡れば、川に接して、雷電の祠、杉林に囲まる。田村将軍の勧請に係ると云ひ伝ふ。昔、津軽の七戸修理、こゝにて南部勢と戦ひしに、白鳥敵に向ひて群飛す。敵は大勢到ると思ひて敗走せり。これより白鳥を雷電神社の神鳥として尊重し、之を捕ふることを厳禁したりければ、今日もなほこゝに白鳥を見るを得る也。大正11年に至りて、史跡名称天然記念物保存地となりたれば、白鳥はいよいよ以て安全也。

「陸奥の海岸線」(白鳥の保護地)

 椿山より引返しては、山水の霊なほ不徹底を笑はむ。椿山より海に沿ひて行くこと一里にして、夏泊崎に達す。これ望めば夏泊半島の最端也。岸に近く、大島立つ。周囲一里、島これ山、山これ草、最高峯に弁天祠を安置す。こゝより望めば、右は野辺地湾、左は青森湾、前は平舘海峡を以て津軽海峡に連る。陸奥湾の全体一目に見ゆ。海のみならず。前には恐山一帯の連山、後には左に八甲田山、右に岩木山、陸奥の名山、悉く見ゆ。なほ津軽海峡の彼方に北海道の山嶽も見ゆるなり。

「陸奥の海岸線」(白鳥の保護地)

 鴎の蕪島、白鳥の小湊のみを以てしても、陸奥の海岸は奇抜なるが、試に地図を展べて見よ。陸奥の国を譬ふれば、右手を頭よりも上に伸ばし、左手を頭の上に曲げたるが如し。頭は夏泊半島也。右肩は青森市内也。右手は津軽半島也。右手と頭との間は陸奥湾也。右手の端より頭の先までは、『陸奥の奥ゆかしくぞおもほゆる壷の石碑外の浜風』と西行法師の歌ひたる外ケ浜也。壷の石碑のありたりし処は、矢張陸奥にて、七戸在の壷村なりと聞く。

「陸奥の海岸線」(浅虫温泉)

 青森にては、桂井旅館を定宿としたるが、大町といふ処にあり、その町名屋号は、余の姓名雅号と下の一字が異なるだけ也、一配達夫余に宛てたる郵便をもち来たり、小首かたむけて、こんな人が本当にあるのかと問へりとて、宿の番頭笑へり。

 臥雲も余も一日中歩かずに、じつとして居れば、腹の具合悪く、気分も良からず。一日風強く、雨強く、寒さも強し。合浦公園を見に行かずやとて、宿を出でむとす。何処へと女中問ふ。合浦公園を見に行くと云へば、このお天気にとて笑へり。

「陸奥の海岸線」(龍飛岬)

今や青森は北海道通ひの要津なるが、これ明治以後の事也。その前函館開くるに及びて、恐山半島の大間崎が北海道通ひの一要津なりしが、それよりもずつと古く、三廐は北海道通ひ唯一の要津なりき。吉田松陰はこゝまで来り、北海道へ渡らずに引返したり。当時三廐人士は松陰の名を知らざりしを以て、その筆跡を伝へずと聞く。若しも源義経が北海道に渡りたりとせば、必ずやこゝより船出せしならむ。ゆかしき土地かな。

「陸奥の海岸線」(龍飛岬)

 概して我國の太平洋に面する海岸は砂濱の連續なるが、日本海に面する海岸は斷崖の連續也。その日本海に面する本州の北に盡きむとする處、小泊岬よりその特徴を發揮して、その全く盡くる處、茲に龍飛岬となりて、北に突出す。頂上は草の山にて、望樓の跡あり、手を伸ばさば、北海道の山も攫み得られむとす。福山の市街も判然と見ゆ。

「陸奥の海岸線」(龍飛岬)

 明治以前、青森は一漁村に過ぎざりしに、鰺ヶ沢は津軽唯一の港なりき。津軽の産物はこゝより出でたりき。津軽の富も文化もこゝより入りたりき。この地に高沢寺とて、青森県第一の大伽藍あるを見ても、昔の鰺ヶ沢の繁華が思ひやらるゝ也。

「陸奥の海岸線」(大戸瀬の奇巌)

 北金沢も過ぐれば、山脚直に海に接するやうになりて、嬉しや、目ざしたる大戸瀬に達せり。

 幅の七八十間は海に突出したる方面の長さ也。長さの五六町は海に横はりて、陸に接する方面の長さ也。唯これ一個の盤石、数万人を立たしむるに足れり。二つ三つ幅一間ばかりの割れ目ありて深く入り、怒濤白竜となつて躍り込む。一体に平らかにして、海面よりほんの二三尺も高し、世にも斯ばかり偉大なる盤石あるかと驚く。この大盤石の中に、杯池とて二三尺四方の水溜りあるかと思へば、兜岩、鎧岩、恵比寿岩など、小岩峰も屹立す。少し離れて、海中に獅子岩立てり。後の草の平丘に巌角露はれて、菌岩人を見下す。さても造化は大戸瀬に奇工を尽しけるもの哉。前は渺々たる日本海、怒濤怒濤を追ふ。後は唯一面の草の平丘東西南北どちら向いても山を見ず。背景が物足りぬやうなれども、それが却つて大戸瀬の偉大を擅にする所以也。我れ巌を叩いて、天地の間唯汝と我とあるのみと云へば、怒濤却下に押寄せて、我狂笑ふに似たり。

「陸奥の海岸線」(大戸瀬の奇巌)

千畳敷


路を左に取りて、山坂を少し登れば、一沼露はる。少し行けば又一沼、又少し行けば又々一沼、いづれも樹木に圍まれて、背景なかりしが、第五沼に至れば、黒森山近く屹立して、背景こゝに始めて壯觀を呈す。沼の大さはいづれも周回五六町、若しくは十町、小なれども念珠繋ぎに連續せるは、天下の一奇觀たらずんばあらず。

「陸奥の海岸線」(松神の百沼)

門より本堂まで三町もあらむ。左に僧坊客室長き一棟をなし、右に自炊の客室連れり。浴室は地蔵堂のすぐ前に二つ、少し離れて三つあり。客坊と自炊室を合すれば、数百千人を収容するに足るべき設備也。

「陸奥の海岸線」(恐 山)

 深浦にても有志者歓迎会を開けり。鰺ヶ沢以南第一に位する小市街也。奇巌に擁せられて、海水深く浸入す。鰺ヶ沢よりも前に開けたる港なるべし港なるべしと思はる。老樹深き処、円覚寺に詣でたるが、仁王門さへありて、思ひの外に観音堂の大なるに驚く。先の住持の遺作を見て、更に驚く。八万四千人の髪を集めて刺繍したる涅槃像、さても非凡の精力なる哉。
「陸奥の海岸線」(松神の百沼)



 秋田の一友人も加はりて、馬を連ねたるは、都合四人也。外に鹿内辰五郎氏徒歩して一行を導く。夏にても、二十年前の雪中の惨事を偲ばざるを得ず。況んや峯上に雪あるをや。況んや中腹に遭難記念の銅像見ゆるをや。況んや鹿内氏は当時捜索隊に加はりたる兵士にして、その目撃したる惨状を語り出すをや。

「雪の八甲田」(二十年前の惨死)

 秋田の一友人も加はりて、馬を連ねたるは、都合四人也。外に鹿内辰五郎氏徒歩して一行を導く。夏にても、二十年前の雪中の惨事を偲ばざるを得ず。況んや峯上に雪あるをや。況んや中腹に遭難記念の銅像見ゆるをや。況んや鹿内氏は当時捜索隊に加はりたる兵士にして、その目撃したる惨状を語り出すをや。

「雪の八甲田」(二十年前の惨死)

 蔦温泉の名は未だ世に現はれざるが、余の気に入りたる温泉也。十和田山中にあるが、なほ精(くわ)しく云へば、赤倉嶽(南)の中腹に在り。一軒屋にて、本館には普通の旅客を迎へ、別館には自炊湯治客を迎ふ。温泉の質は塩類温泉にして、浴場三つ、その一つは四間四方にて、本館に接す。三方開けて、浴しながら月を見るを得べし。その一つは一間に五間、三つに仕切りて温泉を異にす。その一つは、一間に二間、三條の湯滝を懸く。湯舟の気持ちよきこと天下に稀れ也。

 なほ蔦温泉より上ること二里弱にして、谷地温泉あり。更に上ること二里強にして、酸ケ湯温泉あり。酸ケ湯より上ること一里にして、八甲田最高の大嶽の頂に達し、下ること七里にして、青森に達す。


 高田大岳は八甲田群峰の一也。孤立して富士形を成す。頂は東西二峰に分る。今登りたるは東峰也。北の脚下には奇巌散在し、その末に田代温泉見ゆ。眼を放てば、青森市見え、青森湾も見ゆ。東は雛岳、八幡岳などを越えて三本木平原、小河原沼、太平洋、一眸の中に在り。南は十和田湖の一小部見え、御子(おんこ)、戸来(へらい)の彼方に、岩手山雲表に秀峙す。西は西峰、八甲田大嶽、井戸嶽などに遮らる。西峰に至れば、津軽平原の末に岩木山を望み、井戸嶽より、八甲田大嶽、小嶽、石倉嶽へかけ、更に駒ケ峰、乗鞍嶽、赤倉嶽(南)へかけ、更に御子嶽、戸来嶽、岩手山へかけて、南北に連亙せる最大山脈の山々を見渡し、実に目覚むるばかりの眺望也。




 鳴子何の地ぞや。蒙古王とて名高き佐々木安五郎氏が、先頃鳴子の町長に擬せられしことは新聞にも出でて、普く世に知られし所也。近く逝きし町長は、高橋萬兵衛氏とて、鳴子ホテルを営めり。

 去年の春と秋二度余は鳴子ホテルに投じて高橋氏の優遇を受けたり。未だ鳴子を記せざるに、高橋氏先づ逝く。余に在つては、剣を懸くるの感に堪へざる也。

 もと玉造八湯と云ひ、又温泉村八湯とも云へり。八湯とは、鳴子、河原湯、元車、薪湯、中山、赤湯、田中、川渡これ也。鳴子は町として独立したれば、温泉村八湯の名は、今は世に適用せず。新赤湯、一ノ坂、多賀下の温泉も出来たれば、八湯の名も、今は適用せず。更に加はるかも知れざるが、現在の処は、玉造十一湯とは云はざるべからず。而して、鳴子温泉之を代表す。宮城県第一の温泉場也。

 東北線の小牛田駅より陸羽線に取り、一時間にして、岩出山駅に達す。岩出山は山の名に非ずして、市街の名也。岩手山と混同すべからず。伊達政宗は米沢より出でて、この地に移り、後に仙台に移れる也。池月駅と川渡駅との中央あたり、右に近く小黒崎山あり。紅葉の勝地也。なほ進んで陸羽の界に至れば、紅葉の美、世に優れたり。

 昔源義経奥州落の時、出羽より来つて、こゝにほつと一と息つけり。芭蕉翁は玉造川を遡つて、出羽に行けり。鳴子より十数町の川上に、尿前の関の旧址あり。もと『蚤虱馬の尿する枕元』といふ芭蕉翁の句碑ありき。関守の零落せるに際し、この句碑を五円に買ひて、遠く我庭に移したる富豪ありしが、前町長高橋氏之を慨き関址にありてこそ句碑の価値あれ、他の処に移しては何等の価値なしとて、幾度も往いて諭し、終に訴ふるぞとまで威しければ、富豪漸く悟り、百円を付けて戻し来れり。

「鳴子温泉」



 一力ホテルへ戻つて、雨を眺めた。雲を眺めた。紅葉の山をながめた。池の鯉を眺めた。

   紅葉青山当面横。一庭泉石自幽清。晩來雲気圧檐角。三尺金鱗躍有声。

「会津の山水」(磐梯山)

 暮雪の仙湖は、今は常磐公園といふ名の付いた天下的の公園で、梅の名所である。崖下の千波沼が仙湖である。藤田東湖の号は、この湖を東にして住んで居たから出て居る。梅は弘道館の跡にもある。凡そ天下に梅の名所は多いが、水戸の梅には、義公、烈公などの歴史が加はつて、他にみられぬ古意を帯びて居る。

 晴嵐の村松は、湊から北三里の海岸である。一帯の砂丘に、偉大な松林があつて、太神宮もある。日本三虚空蔵の一なる日高寺もある。この寺は常陸第一の大伽藍で、又常陸第一の流行仏で、門前に宿屋もある。阿漕沼といふ深い小湖もある。

「水戸の山水」(水戸の八景)

 一里あまり歩いて、袋田へ来て、桜岡馨氏を訪れた。折しも水鶏が鳴いて居た。桜岡氏が案内してくれることになつて、川づたひに四度の滝壷まで行き滝に対する絶壁を攀ぢて、不動堂から、滝を眺めた。『高さ四十丈、幅二十四丈』と云ひ伝へて居るが、実に天下の大瀑である。十年前に一見したことがある。其時は一月の末で全体が真白に凍つて居て二三折して居るぐらゐに思つたが、今日よくよく見れば四折して居る。四度の滝の名に負かない。袋田にあるから袋田の滝とも称する。

「水戸の山水」(四度の滝)



 中禅寺湖までは、数千の遊客が相連つて居たが、それからは、ほんのぽつぽつあるだけである。湯元の温泉宿も、客が込合はなくて、雨に一層秋の幽趣を呈した。湯元温泉は湯の湖の北側にある。湯の湖の水が一瀉して、湯の滝となるのである。

「裏日光の山水」(湯元温泉)

私は山深く分け入つて、鬼怒沼山に向ふのである。間もなく小坂となつた。喬木天を封じ、根笹地を封じて、深山らしい気持がする。左手の傾斜地の下に、蓼の湖が見える。小さな沼である。峠を越して、少しゆくと、刈込湖が現はれた。南北二三町、東西四五町の湖水である。南岸の小路を行くと、湖水の幅が二三十間になると思ふ間もなく、切込湖が現はれた。これは刈込湖より少し小さい。この二湖は四面直に高い山に圧せられて、物凄いほど静かである。

「裏日光の山水」(川俣温泉)

 小さな渓流に沿うて下ると、少し大きな渓流に出た。それに沿うて下ると、ずつと大きい鬼怒川に出た。対岸を見ると、少し交流に二階建の一軒屋がある。それが川俣温泉であつた。

 二階の一室に通された。すぐ前を鬼怒川が二十間ぐらゐの幅で静に流れて居る。前岸は懸崖で、紅葉が散り残つて居る。後も懸崖である。川上は一曲して居るが、川下は十数町も真直で、この方面だけが明るい。鬼怒沼山への里程を聞くと、五里と答へた。

「裏日光の山水」(川俣温泉)

東北の一角に鬼怒沼山の主峯が一寸頭を出して居り、西北の一角に毘沙門山が少し突起して居るだけで、どちらを見ても眼界が広い。南の方には白根山と根名草山とが目立つて聳え、北の方には燧嶽が目立つて聳え居る。なほ北の方の遙か彼方には駒ケ嶽が兀立して居る。

「裏日光の山水」(鬼怒沼山)

 十二時半、館林駅に下りて徒歩す。数丁にして弁天の渡に至りしに、舟は少なくして渡客多し。空しく待つよりはとて、途を左に取りて、善長寺の渡に至る。駅より凡そ半里の途也。幅二丁ばかりの沼を隔てゝ、彼方は躑躅岡なるが、唯遊人を見て、花を見ず。一同舟にて渡る。右も左も十町ばかりは沼也。この沼、城沼と称す。鳰は唯其声を聞いて其姿を見ず。一羽の白燕沼中の筏にとまり、首を傾けて人を見る。

 午後三時、花の山を去つて、茂林寺に向ふ。岐路毎に木標ありて、露迷はず。二十五町にして達す。境内凡そ一万坪、杉の林を帯びて、見事なる大伽藍也。本堂の前の左手に、守鶴和尚の堂あり。銅仏あり。山門に鐘懸り、偉大なる榧立枯れして、まつはる藤の花、半天より咲き垂る。


 坂路盡きて、地平か也。茶屋ありて名物の夫婦餅を賣る。休息する者多けれど、戻りにとて、左して立身石を見る。十數丈の巨巖也。この上に登るものは立身すとかや。石に上りて男體山の巓に達す。尖れる山の上に能くもと思はるゝばかりの社殿あり。伊弉冉尊を祀る。其横に山階宮殿下の創建に係れる測候所あり。その報ずる所に據れば、今日の午前十時に於ける山頂の温度は零下二度也。筑波町より僅に二十五町の程に過ぎず。而して山上には雪あり、山下には櫻咲ける也。上州野州の方面は怪しく掻き曇り、富士も亦雲中に入れり。唯見ゆるは茫々漠々たる關東の平野也。




 大正九年六月の半頃より九月の末まで余は土佐国中を遍路したりき。大正の今日、なほ汽車を有せざる国といふ一語にても知らるゝ如く、交通不便の為めに、土佐の景勝は未だ世に顕はれざるが、唯龍串は天下の一奇景として、少しは人に知らる。砂岩の磯山にて、数町の間、奇巌相連りて、或は立ち、或は臥す。神サン鬼斧の形容は、龍串にして、始めて其実を得たるものと云ふべし。

   磯の中の磯は此処ぞと海と神手業の限り尽したりけむ

「土佐吟草」(龍 串)

 西の蹉陀岬と東の室戸岬とは、土佐の海門の両柱の如き観を成す。蹉陀岬は断崖直に波に俯す。断崖は漸々高まりて白皇山となる。山頂尖りて、巨石立つ。その石頭の眺望実に雄大也。直に海に接する断崖の上より、海亀の浮遊するを見るも、亦天下の快観たるを失はず。

   亀を呼ぶ巌頭暮れて海涼し

「土佐吟草」(蹉陀岬)

 室戸岬も断崖を成せど、崖と海との間に余地ありて、巨巌錯落し、樹木点綴す。殊に岬の東面半里許りの間は、実に自然の公園也。絶壁の下には弘法大師の籠れりと伝ふる巌窟もあり。楼閣の大さもある巨巌相連りて海に臥し、樹木倒生し、横臥し、その葉の色の青黒きに、激飛する浪の白き花咲く。若し天下無頼の勝地を求むれば、余は先づ室戸岬を押すべし。

   海万里入道雲の影白し

「土佐吟草」(室戸岬)

 四国八十八霊場の中十六霊場だけ土佐にあり。その中、直に大洋に接するは、室戸岬の最御崎寺(東寺)、津寺、金剛頂寺(西寺)、青龍寺、蹉陀岬の金剛福寺也。海の見ゆるは岬峰寺、峰寺、竹林寺、清瀧寺也。維新まで神仏混合の事とて、一の宮、仁井田五社、神峰神社は、社を主として霊場となりたりき。今や安楽寺は一の宮を離れて、江の口に在り。岩本寺も五社を離れて、窪川に在り。なほ雪蹊寺、種間寺、大日寺、延光寺を加へて都合十六霊場也。余は十六霊場を巡拝したるが、いづこも寺の貧弱なるをあはれに思ひぬ。清瀧寺に詣でし時、夕立至る。土佐の夕立は、実に猛烈也。快甚だし。

   下界消えて山上の寺に夕立す

「土佐吟草」(十六霊場)



右手の山尽きて、武田神社に至る。武田信玄を祀る。大正八年の創立にて、県社に列す。こゝは躑躅ケ岡館の跡にて、信虎、信玄、勝頼三代六十三年間住まひし処也。石垣あれども低く、堀あれども狭し。南北二町に足らず、東西も三町に足らず。天下に雄飛せし信玄の舘としても小也。況して城としてをや。『人は城人は石垣人は堀なさけは味方あだは敵なり』と歌ひて、信玄は別に城らしきものを構へざりき。

「七面山より駒ケ嶽へ」(山は富士、人は信玄)

 日暮れむとする頃、西山温泉にたどりつく。北湯川、南湯川と合して湯川となり、早川に合せむとして、なほ一町ばかり余す処、橋あつて架る。目、渓流を追うて峭壁を見上ぐれば、下に一楼、上に一楼、下なるを古湯と云ひ、上なるを新湯といふ。世にも奇抜なる温泉哉。仙宮にやとも思はれ、南画を目のあたり見る心地もしたり。一行におくれて、余ひとり見物す。

「七面山より駒ケ嶽へ」(夜の山路)

 羽衣橋より春木川に沿うて下ること半里にして、赤沢といふ部落に達す。旅館二つ、一を江戸屋といひ、一を大阪屋といふ。小日本を山中に見る心地す。取りつきの大阪屋に投じて午食し、又午睡す。これより身延山を越えて、身延に赴く予定なりしが、斯くては今日の中に甲府に帰れず。舟にて早川の急流を下ることに変更し、春木川に沿うて下る半里にして、角瀬に至る。こゝは春木川の早川に合する処也。

「七面山より駒ケ嶽へ」(早川下り)

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