石田波郷



『江東歳時記』を歩く

千住大橋付近で

ゆく春や市のはてたる魚市場

素盞雄(すさのお)神社から千住大橋へ。


千住大橋


 「千じゆと言ふ所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。

行く春や鳥啼き魚の目は泪

 千住大橋は文禄3年架橋、寛文6年始めて改架。芭蕉の時はこの橋だ。次の改架で今の場所に変わった。水清かった荒川の流れも、今は真黒に染まって上潮の悪臭がはなはだしい。鉄橋をとどろかして電車、自動車ひっきりなし。橋のすぐ上手に小公園があり、つり舟屋が一軒つき出ている。昭和10年開園までは蒸汽場といって、隅田川の一銭蒸汽の終点だったところである。芭蕉がどこに上がったか俤を求めるよしもない。



 奥州、水戸、日光三街道の宿でにぎやかだった千住は、記録を見ると鮒、鯉などの川魚問屋が多かった。芭蕉の門人たちはそんな街道に立って師の後影の見える限り見送ったのであろう。今の魚市場のあるところは大正時代までは沼地だったそうだ。少し北へ行くと街道は2つに分かれ、旧街道の方はやがて放水路に断ちきられて橋も与えられていないのである。

大橋公園に「史跡おくのほそ道矢立初の碑」がある。


荒川の流に架す。奥州街道の咽喉なり。橋上の人馬は絡繹として間断なし。橋の北一二町を経て駅舎あり。この橋はその始め文禄三年甲午九月、伊奈備前守奉行として普請ありしより、今に連綿たり。

『江戸名所図会』(千住の大橋)

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