石田波郷


『江東歳時記』を歩く

篠崎浅間神社

七浅間納めの梅雨の傘負へり

JR総武線小岩駅南口から京成バスに乗り、「浅間神社」で下車。


篠崎浅間神社がある。


人は誰もいないが、7月1日の例祭日には「大にぎわい」のようだ。

浅間(せんげん)神社

 平安時代の天慶(てんぎょう)元年(938年)5月15日を創建とする区内では最も古い神社で、祭神に木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)を祀り、ほかに摂社8社をまつっています。承平2年(932年)にこの地に移住していた弥山左那比神人(ややまさなひしんと)が初代宮司として仕えました。

『奥の細道』の「室の八島」に「木の花さくや姫の神」の記述がある。

 室の八嶋に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室(うつむろ)に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。又煙を讀習し侍もこの謂也」。

 木花咲耶姫が隙間をすべて壁土で塞いだ無戸室に入り、産気づいたところで室に火を放ち、炎の中で無事に三柱を産み落としということらしい。三柱は彦火火出見命(ひこほほでみこのみこと)、火須勢理命(ほのすせりのみこと)、火蘭降命(ほとほりのみこと)

 「彦火火出見命(ひこほほでみこのみこと)」が『古事記』の神話「海幸彦・山幸彦」で知られている「山幸彦」。

 また、天慶(てんぎょう)3年(940年)には平将門の乱(939−940)を鎮めるため平貞盛が将門降伏の祈願をこめ、社内に霧島神社を祀り、金幣と弓矢を献じて武運を祈った由緒の深い神社です。

 昭和32年(1957年)、石田波郷は7月1日の例祭日に篠崎浅間神社を訪れた。

 7月1日山開き、この日富士山頂は早朝気温4度、北西の風1.6メートル、高曇で静かな開山天気だったそうだ。江東の各浅間(せんげん)神社も山開きでにぎわう。梅雨雲が乱れてうす日がさしたり、雨がけぶったりする江戸川篠崎土手を下りて森の中の浅間神社に入ってゆく。祭の出店で大にぎわいだが、肝心の幟(のぼり)が1本も見当たらない。風船屋のおばさんに、

「ここは浅間さまですね」

と念をおしてみたくらいだ。そこで社務所に行って、ちょうど、はかまをぬぎかけている氏子代表とおぼしき人にきく。

「大幟でしょう。立てるのが大変なんですよ。農家も忙しい時だし、今年、来年は休んで、3年に1度ということにしました」

 昔から篠崎村5郷、西、上下の各篠崎、中町、篠崎本郷から各2本ずつ計10本、12間の大幟を立て、幟祭と親しまれてきたのだから理由はともあれ残念なことだ。

 富士講姿に蝙蝠傘(こうもりがさ)を袈裟(けさ)がけにした女達が、神殿の階を下りてくる。七浅間参りだ。

「おばさんたち、どこをお参りしてきたのですか」

 立ちどまった2人が指を折りながら、

「八蔵橋、飯塚、野猿股、松戸、小山、ええともう1つどこだったかナ、そうそう戸ヶ崎、それとここですね」

七浅間納めの梅雨の傘負へり

『江東歳時記』(篠崎浅間神社)

のぼり祭


のぼり祭

 文化・文政の頃から「七浅間さままいり」のひとつとして講が組織されました。7月1日の例祭日は「のぼり祭」といわれ、柱に下総国と銘のある高さ20米以上もある大幟(おおのぼり)が10本もたてられるので、この名があります。珍しい祭りで、日本一ともいわれています。

善養寺へ。

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