石田波郷



『江東歳時記』を歩く

深川不動尊で

前髪にちらつく雪や初不動

東京メトロ東西線門前仲町を下りると、深川不動尊がある。


深川不動尊


関東三十六不動霊場第20番札所である。

深川不動尊の後ろに首都高9号深川線が見える。

由来

 深川不動尊は真言宗で、成田山不動堂新勝寺の出張所として明治11年(1878年)、当地に遷座され、同14年、堂宇が建立されました。

 元禄(1688〜1703)の初め頃より、江戸で成田山不動が盛んに信仰されるようになり、元禄16年(1703年)本尊不動明王が初めて富岡八幡宮の境内で出開帳されました。以来、出開帳のたびに、その様子が錦絵に描かれ出版されるほどになりました。

真言宗智山派の寺である。

深川不動尊と富岡八幡宮の区別がつかなかったが、これで分かった。

 昭和13年(1938年)2月6日、高浜虚子は武蔵野探勝会で深川不動尊へ。高野素十等同行。

 不動尊の左手の方は公園になつて居る。其方へは誰も余り行つた者はないと思つたが、

ふらこゝの高く下には水たまり
   素十

ふらこゝに子供の多き夫婦来ぬ
   々

 矢張りちやんと足跡は印されて居た。

 右手の方は道を隔てゝすぐ富岡八幡の境内である。震災後再建された社殿は荘厳なものでまこと江東第一の宮居と仰がれた。

『武蔵野探勝』(春寒の深川)


 昭和33年(1958年)1月28日、石田波郷は雪がちらつく深川不動尊の初不動に出かけていった。

正月の末の寒さや初不動  万太郎

 28日深川富岡町成田不動の初不動は朝から雪もよいの寒空だったが、ひるまえにはとうとう雪がちらつきはじめた。雪とみるとじっとしておられない性分だから、すぐ灰色の町へとびだした。

 元禄16年(1703)成田山不動がはじめて深川富岡八幡境内へ出開帳して以来、明治になると出張所の堂宇が建立された。戦災の猛火をまぬかれるすべもなかったが、26年には再建した。

初不動ばかの剥身を土産かな  苫舎

日の出見し須崎の戻り初不動  三允

などの句は、大正から昭和のはじめまでは通用した深川らしい情緒をあらわしているが、もちろん今日では洲崎も売春防止法でだめになり、ばかの剥身など境内の出店でも売っていない。参道をうずめた出店は月々の縁日とかわりないが、ちらつく雪にぽつぽつ傘をまじえ、お参りを終えて帰ってくる女の災難除の御守をさした髪にもお婆さんの黒えりまきにも雪が3片4片。御手洗の水は手を切るように冷たい。

『江東歳時記』(深川不動尊で)

久保田万太郎も深川不動尊の初不動に行ったのだろうか。

 昭和38年(1963年)5月6日、久保田万太郎は市ヶ谷の梅原龍三郎画伯邸で会食の時、不慮の死を遂げる。73歳であった。

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

石田波郷は久保田万太郎の死をテレビで知って句を詠んでいる。

   五月六日久保田万太郎逝く

すぐ消えし訃報のテレビ蕗苦し

 戦前、波郷が明治大学に通っていたころ、講師の一人だった久保田万太郎は昭和38年に亡くなったが、その第一報を知ったのも、台所のテレビであった。

石田修大『父の肖像』

 昭和39年(1964年)5月7日、星野立子は玉藻探勝会で深川不動へ。

 三月八日 玉藻探勝会。深川不動。鼓声さんの御案内で秋山扶木
主監、松田照豊執事にお会いする。十一時頃私等の為の護摩供に預
る。電車通りのかね松で鰻飯で昼食。

木場へゆく時間ぎりぎり町余寒

春寒や護摩の火の今飴色に

暖かに心通ひて目礼す


富岡八幡宮へ。

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