私の旅日記

象潟町〜芭蕉の歩いた道〜
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今日は象潟で芭蕉の歩いた道をたどってみることにする。

きさかたさんぽみち

「木戸跡」

 江戸時代、一般的に市中への入口や要所に警戒のための「木戸」と呼ばれる簡単な門が設けられていた。

 正保2年(1645年)に矢島藩生駒家と本荘藩六郷家の領地交換があり、ここが国境となり木戸が設けられた。木戸より北側は本荘藩の汐越村、南側は矢島藩の冠石村であった。木戸は明治4年廃藩置県が布告されるまで存在した。

田山花袋が宿泊した「秋田屋」跡

 明治36年(1903年)8月、後に島崎藤村とともに自然主義文学派を代表する作家となる田山花袋が秋田を訪れ、象潟に足を伸ばした。

 この旅のようすを記した「羽後の海岸」には「今宵はこの名高き昔の名勝を偲ばんとて、秋田屋と言へるにやどる。室の窓は恰も鳥海山に對して、夕雲の彩あるたゝずまひは、うたゝ旅の心を惹きむ」と書かれている。ここがその「秋田屋」があった所である。

 花袋はこの「秋田屋」から親友の島崎藤村ハガキを書いている。

にかほ市

菅江真澄が宿泊した岡本屋跡

 天明4年(1784年)9月25日、後に秋田藩主佐竹義和に重く用いられ、秋田地方の風俗や伝承を克明に記録した数々の著書をもつ菅江真澄が山形県から三崎峠を越えて秋田県に入った。故郷の三河(愛知県)を出て2年目、31歳のときである。小砂川の旅籠のもとに2泊したあとの27日、汐越に到着。「岡本」という旅籠に3泊し、歌枕の地象潟を巡った。ここが、その「岡本屋」があった所である。

にかほ市教育委員会

奥の細道 今野嘉兵衛の家

 「曾良随行日記」には今野加兵衛(実際は金嘉兵衛)が象潟滞在中の芭蕉主従を時々訪ねて世話をしたとある。嘉兵衛は名主の金又左衛門の実弟であり、又左衛門が祭りで忙しかったため、名代で芭蕉主従をもてなしたのである。

 当時、嘉兵衛の家があったこの場所は又左衛門の屋敷内であり、現在は嘉兵衛の直系の子孫が住んでいる。

にかほ市

奥の細道 今野又左衛門の家

 芭蕉主従が元禄2年(1689年)6月16日(陽暦8月1日)から象潟に2泊3日の滞在中、実弟嘉兵衛をつかわし、心から丁重にもてなした象潟(当時は塩越村)の名主今野又左衛門(現在は金)の家である。

 17日の夜には宿の能登屋を訪ねて、芭蕉主従に象潟の由来や伝説などをいろいろ語っている。

にかほ市

きさかたさんぽみち

熊野神社


 文治2年(1186年)に紀伊国(現・和歌山県)で飢饉による騒動があったとき、熊野三山の別当の孫にあたる大円坊という人が熊野山からご分霊を奉じて海路象潟にいたり神明森(現境内)に祠を建てて祀ったのが始まりといいます。その後さらに万治年間(1658〜1661)あらためて社殿が造営されたと伝えられております。しかし度々の火災やさまざまな変遷を経て今日に至っておりまますが明治6年には郷社に列せられました。

 元禄2年(1689年)6月16日(現暦8月1日)は松尾芭蕉が象潟に到着した日ですが、この日がたまたまこの神社の祭りでした。曽良日記には祭りで宿が女客でいっぱいであったため「向屋」に泊まったと記され、この祭りに関しての一句は

   象潟や料理何くふ神祭(曽良)

というものでした。また、天明4年(1784年)には菅江真澄も参詣しています。

 さらにこの社には慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際、政府軍の荒川遊撃隊が佐幕派の庄内軍との戦いの出撃にあたり作法に則って、全員が頭髪を切って納め、武運長久を祈願したことがあります。なお、この戦いで2名の隊員が武運つたなく戦死しています。

 現在祭は5月の第3日曜日、古四王神社と同日で「象潟の祭り」として町を挙げて盛大におこなわれておちます。

昼ニ及テ塩越ニ着。佐々木孫左衛門尋テ休。衣類借リテ濡衣干ス。ウドン喰。所ノ祭ニ付而女客有ニ因テ、向屋ヲ借リテ宿ス。

「曾良随行日記」

奥の細道

象潟橋(欄干橋)


 かつて、この橋から眺める九十九島と鳥海山は「象潟八景」の一つと言われていました。

 最初に橋が架けられたのは慶長8年(1603年)のことで、その後の元禄2年(1689年)芭蕉と曾良が「おくのほそ道」の旅でここを訪れています。曾良の旅日記には、象潟に着いた6月16日(陽暦8月1日)に「先、象潟橋迄行テ、雨暮気色ヲミル…」とあり、象潟を去る18日は「快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル…」とあります。

にかほ市

史蹟 船つなぎ石


 ここ欄干橋(象潟橋)のたもとに立つ道しるべの石柱は、昔象潟川をさかのぼってきた和船が綱をかけて、船を停めるに利用したところから船つなぎ石と愛称されるようになった。

 かつて象潟の美しい八十八潟九十九島の風景を遊覧する舟は、このあたりの岸から出たのである。芭蕉と曾良の師弟もここから舟に乗って島巡りをした場所である。

 左右往還と刻まれた石の文字は土地の道案内文字で、昔をしのばせる遺産である。

にかほ市教育委員会

腰丈橋


 現在象潟川といわれるこの川は、文化元年(1804年)の地震で象潟が隆起するまで、潟から日本海にそそいでいました。熊野神社の御祓いの禊を行う所であり、御手洗川ともいわれていました。この地域を腰丈いい、元禄2年(1689年)に象潟を訪れた俳聖芭蕉は「腰長(丈)や鶴脛ぬれて海涼し」と詠んでいます。

 昔は橋がなく、大正時代になってから、川口付近にあったサケ網漁な番屋に通じるため一人がようやく渡れる橋がつくられたといわれています。

 昭和に入り、唐ヶ崎と中橋を結ぶ重要路線として旧象潟町で架橋しましたが、激浪に襲われその都度押し流されていました。この後、昭和41年に現在の橋と両側の護岸が完成し、その後嵩上げ工事が行われています。

にかほ市教育委員会

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