私の旅日記〜2011年〜
鳴海城跡〜天神社〜
名古屋市緑区鳴海町城の鳴海城跡に天神社がある。
鳴海城跡
根古屋城ともいい、応永年中(1394〜)安原宗範の築城といわれる。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いでは、今川方の猛将岡部元信がこの城に配され、義元が討たれた後も最後まで立てこもって奮戦した。
その後、佐久間信盛、正勝らが城主となったが、天正18年(1590年)廃城となったと伝えられる。
『尾張志』は東西75間、南北34間で四面に城跡、本丸と二・三之丸にも堀を残すと記している。
名古屋市教育委員会
鳴海城跡は成海神社の旧地である。
天神社
成海神社旧祠 天神社由緒
古事記に景行天皇40年皇子日本武尊東夷を征すとあるが、その節鳴海浦のこの地にお立ちになった尊は対岸の火高(現大高)丘陵の尾張氏館を望見して、
鳴海浦を見やれば遠し火高地にこの夕潮に渡らへむかも)
とお詠みになった事が熱田神宮寛平延喜に見える。
鳴海神社は是を由縁として天武天皇朱鳥元年尊とその御東征を翼賛した尾張氏始祖とを併せ祀ってこの所に創建されたのである。
延喜5年制定の律令書「延喜式神名帳」には尾張国愛智郡成海神社と登録せられ、文治2年の「尾張国内神名帳」には従三位上成海天神と称えられて、此所に鎮座東海道古名社と尊ばれた。
戦国時代当初応永年中足利氏武将安原宗範この地に築城のため成海神社を乙字山の現在地に奉遷。
その後永禄3年桶狭間合戦の際この城は今川氏の重要拠点となったが、天正年間織田信長により廃城され、後世「鳴海城址」として史蹟に指定された。
城の鎮守として斎かれた天神祠はそのままこの地に遺り、世俗成海神社御旅所と称え、祭礼の日古例に則り御神幸あり、崖下扇川畔にて御東征の遺意を伝える「御船流神事」が斎行せられる。
平成2年11月
「倭武尊御歌」の碑があった。
奈留美良乎 美也礼皮止保志 比多加知尓 己乃由布志保尓 和多良部牟加毛
(なるみらを みやればとほし ひたかちに このゆふしほに わたらへむかも
境内に芭蕉の句碑が3基あった。
杜若われに發句のおもひあり
出典は『俳諧千鳥掛』。
貞享2年(1685年)4月4日、知足亭で巻かれた歌仙の発句である。
平成3年(1991年)春、鳴海商店街共同組合建立。
京まではまだ半空や雪の雲
出典は『俳諧千鳥掛』。
貞亨4年(1687年)11月5日、鳴海宿本陣の寺島ボク言亭で巻かれた歌仙の発句である。
『蕉翁句集』(土芳編)に「鳴海の沢に伯(ママ)りて飛鳥井雅章の君都を隔とよみて給ハらせけるを見て」と前書きがある。
賀新宅
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よき家や雀よろこぶ背戸の粟
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出典は『俳諧千鳥掛』。
『泊船集』には「背戸の秋」とある。
『俳諧一葉集』に「知足の弟金右衛門が新宅を賀す」と前書きがある。
貞亨5年(1688年)7月8日、鳴海の知足の弟下里三郎右衛門の新築祝いに詠まれた句。
平成3年(1991年)、鳴海商店街共同組合建立。
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