一茶の句碑

正見寺


秋風やちひさい声のあなかしこ

長野市豊野町浅野に正見寺というお寺がある。


正見寺


浄土真宗本願寺派のお寺である。

小林一茶は正見寺の住職と知り合いであったようだ。

浅野に一茶の門人文虎竜卜がいた。

 文化5年(1808年)1月11日、一茶は竜卜に託して浅野正見寺に手紙を出している。

正月十一日
一書一通 信州アサ野正見寺逝(行) 竜卜に遣ス


 文化6年(1809年)5月21日、一茶は墓参の後、浅野の正見寺に泊まる。

 廿一日 晴 亡父の墓参 浅野正見寺泊 古間雪居の母のもにこもるをとふ

   母恋し恋しと蝉も聞ゆらん

『文化六年句日記』(5月)

 文化7年(1810年)5月16日、一茶は長沼から浅野の正見寺に泊まる。

   十六 昼より雨 浅野 正見寺泊

旅人に雨降花の咲にけり

『七番日記』(文化7年5月)

雨降花は昼顔のこと。

 文化9年(1812年)8月7日、一茶は浅野に入る。

   七 晴 アサノニ入

『七番日記』(文化9年8月)

浄土真宗正見寺の門前に小林一茶の句碑があった。

小林一茶の句碑


   正見寺の上人十ばかりなる後住を
   残して遷化ありし哀れさに

秋風やちひさい声のあなかしこ

秋風や小さい声のあなかしこ

『文政句帖』(文政5年8月)

宝蔵院にも小林一茶の句碑がある。

正見寺境内に川島芳子鎮魂之碑があったのは意外だった。


       辞世の詩

家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん

川島芳子鎮魂之碑

 20世紀女性史最大の栄光と悲劇を一身に波瀾万丈の生涯を戦争と運命を遂げた=男装の麗人=川島芳子女史が当時に来訪された事があります。女史は中国清王朝最後の粛親王第十四王女として1907年北京で生まれた。 本名は愛新覚羅顕シ(シは玉ヘンに子)、5才の時辛亥革命で清朝が崩壊し、親王府一族も北京を脱出して旅順の日本租界に亡命された。親王府総理であった長野県出身の川島浪速氏の養女となられ、東京の豊島師範付属小学校を経て松本高等女学校に入学された。その頃から詩作と乗馬は抜群の才女でした。昭和初年頃黒姫の川島山荘から飯山正受庵へ禅研究に訪庵の途次、当寺を訪ねられた。住職の三男教順少年(長野中学校生徒)の弾くマンドリンの「月の砂漠」の旋律にひかれ幾日か逗留された。

 父は清国親王、母はモンゴル王女、養父は日本人、この結縁故アジア人のアジアのための平和をと活動するも、日本敗戦により捕らわれの身となり1948年(昭和23年)3月25日北京で処刑されました。傷心幾才か有志相計り四十五回忌を迎えるにあたり昭和史の一視点として仏縁による正見寺内に鎮魂之碑を建立する所以である。

 1992年に12月10日

正見寺第十七代住職 窪 智鎧
建 立 委 員 長 新津 武

「豊島師範付属小学校」は現在の東京学芸大学附属小金井小学校。

豊島師範付属小学校卒業後、跡見女学校に進学。

浪速転居にともない、松本高等女学校に転学。

「松本高等女学校」は現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校。

当時、聖高原に川島浪速別荘無聖庵があった。

 平成17年(2005年)1月1日、長野県上水内郡豊野町は戸隠村、鬼無里村、大岡村と共に長野市へ編入合併。

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