一茶ゆかりの地
大乗寺
此沼もおなじ向なり天河 消る時御供申さん雪仏 |
廿六日 雨 富津より大乗寺ニ入
『享和句帖』(享和3年11月) |
六日 晴 終夜大乗寺念仏踊 |
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十六日 晴 夕立 |
大乗寺地獄画 秋の風劔の山を来る風か 秋の風我は(が)参るはどの地獄
『文化句帖』(文化元年7月) |
廿日 晴 大乗寺ニ入
『文化句帖』(文化2年7月)
八日 晴 大乗寺ニ入
『文化句帖』(文化2年8月)
七[日] 晴 大乗寺諷講
『文化六年句日記』 |
女流俳人織本花嬌は、元文年間(1736−41)に旧西川村(現在富津市西川)の名主小柴庄左衛門の娘として生れ、本名を園といったが、長じて隣村の旧富津村の名主織本嘉右衛門に嫁した。 |
対潮庵とも号し、同時代の雪中庵蓼太や小林一茶など当時の一流俳人らと親交があった。彼女に対する資料の多くは大正時代の富津大火で失ったが、句集のなかに次のような遺作がある。 |
用のない髪と思へば暑さ哉 |
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名月や乳房くきえて指さして |
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若草やいとしき人のむかし道 |
花嬌は文化7年(1810年)4月3日に没したが、生前における一茶との親交は、一茶の『七番日記』など多くの記録がある。花嬌の百カ日忌に富津を来訪した一茶は「草花やいふもかたるも秋の風」と追悼の句を詠んでいる。
千葉県教育委員会 富津市教育委員会 |
文化7年(1810年)7月13日、一茶は花嬌の百カ日忌に大乗寺を訪れる。 |
十一 晴 夜舟ニ乗 |
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十二 晴 牛(午)刻木更津ニ入 |
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十三 晴 八ツ時大夕立 富津 十三日 百カ日花嬌仏 大乗寺 |
艸花やいふもかたるも秋の風 蕣(あさがお)の花もきのふのきのふ哉 |
『七番日記』(文化7年7月) |
文化8年(1811年)6月5日、一茶は木更津の光明寺に参詣、7日は大乗寺に入る。 |
七 晴 大乗寺ニ入 天王祭
『七番日記』(文化8年6月) |
十六日昼ごろ、キセルの中塞がりてければ、麦わらのやうに竹をけづりてさし入れたるに、中にしぶりてふつにぬけず、竹の先僅(わづか)爪のかゝる程なればすべきやうなく、前々より欠け残りたるおく歯にてしかと咥(くはへ)て引たりけるに、竹はぬけずして歯はめりめりとくだけぬ。あはれあが仏とたのみたるただ一本の歯なりけり。さうなきあやまちしたりけり。釘ぬくものにてせばするするとぬけべき[に]
『七番日記』(文化8年6月) |
なつかしや篭(籠)カミ破ルきりぎりす がりがりと竹かぢ(じ)りけりきりぎりす
『七番日記』(文化8年7月) |
此寺ハ廿年あまり折ふしにやどりて、物ごとよ所よ所しくハあらねど、それさへ心まゝならぬものから、かゝるうきめに逢ひぬ。 |
「此寺ハ廿年あまり折ふしにやどりて、」とあるから、一茶は寛政年間(1789−1801)から大乗寺に泊まっていたのであろう。 寛政2年(1790年)4月、一茶は長谷川馬光句碑の建碑式に鋸山日本寺を訪れる。その途中で大乗寺に泊まったのが最初であると思われる。 文化9年(1812年)4月3日は花嬌の三回忌。翌4日の追善会に一茶は参列する。 |
三 晴 花喬(嬌)仏三回忌 |
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四 晴 北風吹 未刻ヨリ雨 終夜不止 花喬(嬌)追善会 |
四日 花喬(嬌)仏 目覚しのぼたん芍薬でありしよな 何をいふはりあひもなし芥子の花
『七番日記』(文化9年4月) |
同年5月3日、『花嬌家集』並びに『追善集』の編集が終わり、大乗寺に入る。8日、舟で深川油堀へ。 |
三 晴 花喬(嬌)家集并(並)追善集 五月十二日書始 今日終 大乗寺ニ入 |
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八 小雨 午刻晴 未刻舟ニ入 夜 戊(戌)刻深川油堀ニ入 舟泊 |
『七番日記』(文化9年5月) |
文化11年(1814年)9月28日、一茶は曽我野村から木更津に、30日には大乗寺に入る。 |
[廿]七 晴 ソガノニ入 |
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[廿]八 晴 木更津ニ入 |
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卅 晴 大乗寺ニ入 |
『七番日記』(文化11年9月) |