2011年〜下 町〜
吉祥寺〜あさ香社跡〜
文京区本駒込の本郷通り沿いに吉祥寺がある。
長禄2年(1458年)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。
天正19年(1594年)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657年)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。
僧侶の育成機関として栴檀林(駒沢大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、当時の幕府の昌平坂学問所と並び称された。
─── 郷土愛をはぐくむ文化財 ───
文京区教育委員会
吉祥寺山門
享和2年(1802年)、再建。
吉祥寺参道
参道の左手に「お七・吉三の比翼塚」があった。
天和2年(1682年)12月、大火のために本郷の八百屋市左衛門の一家は檀那寺である駒込の吉祥寺に避難した。そこで市左衛門の娘お七は寺小姓の吉三郎と恋に落ちる。
天和の大火では呉服店「越後屋」、深川芭蕉庵も焼けている。
翌天和3年(1683年)1月、もう一度火事になったら吉三郎様に逢えるとばかり、お七は新築された我が家に放火してしまう。
3月29日、お七は鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられた。
昭和41年(1966年)3月29日、お七生誕300年記念に日本紀行文学界建立。
平成19年(2007年)11月、再建。
参道の右手に「川上眉山の墓」があった。
明治2年──明治41年(1869──1908)。大阪生まれ。名は亮(あきら)。小説家。東大を中退して尾崎紅葉や山田美妙と交わり硯友社に参加。また『文学界』同人とも交わる。明治28年には社会批判を含んだ「書記官」などの作品を発表する。
後年、自然主義を取り入れようとするが行きづまり、ついに自ら命を絶った。
東京都文京区教育委員会
諏訪山吉祥寺
曹洞宗の寺である。
吉祥寺経堂
栴檀林の図書収蔵庫であった。