私の旅日記2011年

吉備津神社 〜犬養毅の銅像〜
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岡山市北区吉備津に吉備津神社(HP)がある。


吉備津神社


備中国一之宮である。

吉備中山が紅葉している。

吉備中山は備前と備中の国境である。

吉備津神社

 10代崇神天皇の御代に、四道将軍として吉備国に派遣された吉備津彦命を祭神とし、 古来吉備地方の総氏神として崇敬されている。現在の本殿及び拝殿は、応永32年(1425年)に完成。本殿は、比翼入母屋造りまたは吉備津造とよばれる。独創的様式の大建築で、拝殿と共に国宝に指定されている。また、延文2年(1357年)再建の南随神門と天文12年(1543年)再建の北随神門は、共に国の重要文化財、鳴釜神事の行われる御釜殿は慶長17年(1612年)の建築で 岡山県重要文化財に指定されている。

岡山県・岡山市

 元禄11年(1698年)5月6日、支考は西国旅行で吉備津神社を訪れている。

此日吉備津宮にまうづ。此朝はくもりはれみ、おもひさだめがたき空のけしきなるを、かりそめに思ひ出ぬる道のことさらに照りわたりて、そのあつさたえざらんとす。


 元禄12年(1699年)9月、去来は長崎を出立。途中吉備津神社に参詣、句を奉納している。

去来の句碑があった。


秋風や鬼とりひしぐ吉備の山

出典は『青莚』(除風編)。

「備中國吉備津宮奉納 十七句の中の1句。

 宝永2年(1705年)3月、魯九は長崎に旅立つ。途上、吉備津神社で句を奉納している。

   備中 吉備兩社奉納

花に猶つり合もよし吉備津山


 享保元年(1716年)、露川は門人燕説を伴って西国を行脚。吉備津神社を訪れる。

備中の國に移りて、吉備津の神官高吉の許に足をとゞめて終日誹談して、明れば吉備の神前に詣でゝ、一劔國下にかゞやけるの徳を思へば、時ならず寒けだちて、正しく邊にゐますがごとし。

神風にいづれ十握(ツカ)のつばなの穂
   居士


 宝暦元年(1751年)3月6日、建部凉袋は長崎からの帰途吉備津神社に詣でる。

吉備津宮大藤内の社拜しめぐりて岡山に出るころはいとゞ西日に成りてひとつみどりなる川添の柳もあたゝかに起臥たり

   吹かれじと水にとりつく柳かな

『紀行花がたみ』

 宝暦元年(1751年)10月、信杖房許虹は九州行脚の途上吉備津神社に参詣。

 明和元年(1764年)8月、多賀庵風律は東国行脚の途上吉備津神社に参詣。

 明和8年(1771年)4月21日、蝶夢は吉備津彦神社を訪れている。

 廿一日の朝は、やがて身もすゞしうなりければ、備中の方へと出たつ。備前の吉備津宮、備中の吉備津宮とて二社の神おはす。吉備の中山といふ小さき山一つを隔て国の境とす。


 安永8年(1779年)3月1日、蝶夢は出雲行脚の途上吉備津に参詣している。

吉備津の宮吉備郡眞金町大字宮内に參る、此神垣には神供の釜鳴動して吉凶をしめし給ふ、いちじるき神事あり、釜殿といふ、其神供をかしぐ老女は、國の内にて出る郷里さだまれるとか。

はるかぜにつれてや釜のいさましき
   蝶夢


 文化2年(1805年)10月26日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で吉備津神社を訪れ鳴釜神事のことを書いている。

右に石の大鳥居あり。これ吉備津宮なり。大門長くして兩側に松の並木あり。盥石あり、清淨水とゑれり。手あらひ口すゝぎて石坂を上る坂に緩急あり拜殿にぬかつきて仰ぎ見れば、大きなる竪額ありて吉備津宮とあり拜殿の横のかたにかゝぐ右のかたなる回廊を下る事數百間にして、又右の方に曲れば竈に釜を二ッならべて、右のかたの釜に甑をかけて、御供米をふかすと云、釜に注連繩を引、これ鳴音をきく釜なり。左の釜は朝夕の御膳を炊て備ふといふ。二人の老女釜の前に坐して、もし初穂銀十二匁をさゝげてこへば、釜をわかしその鳴音を以て吉凶を占ふ。毎月十九日に此神をまつると云。


吉備津神社の駐車場に犬養毅(つよし)の銅像があった。


犬養木堂先生 銅像の説明

 犬養毅(木堂と号す)は安政2年(1855年)に備中国賀陽郡庭瀬村(現在、岡山市川入)に犬養源左衛門の二子として生る。

 明治8年(21才)上京し慶應義塾に学ぶ。明治10年(23才)西南戦争起るや従軍記者となったが、その後、文筆と雄弁をもって政治運動に入り、明治23年(36才)衆議院議員となる。明治31年(44才)文部大臣に任ぜらる。その後、立憲国民党、革新倶楽部等を組織し、「憲政の神」と称せらる。

 大正13年(70才)逓信大臣、昭和4年(75才)政友会総裁となり昭和6年総理大臣となる。しかるに、翌昭和7年(1932年)いわゆる5・15事件勃発し過激派のために官邸にて暗殺さる。享年78才、正二位・旭日桐花大綬章を追贈せらる。

 毅の生家(此処より南方へ約3キロに現存)は代々庭瀬藩の大庄屋、その遠祖犬養健命(いぬかいたけるのみこと)は大吉備津彦命の随神なり。よって氏神吉備津神社のため尽瘁(じんすい)するところ多し。毅の没するや郷党の人々その高風を慕い、昭和9年この地に銅像を建つ。作者は朝倉文夫、雄姿堂々として天下を睥睨するの概あり。

昭和41年(1966年)、山口誓子は犬養木堂の像を見ている。

   吉備町は犬養木堂出身の地

天寒くして木堂の細身の像

『一隅』

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