俳 人

常世田長翠

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常世田長翠ゆかりの地

『諸郡銘録』 ・ 『黒祢宜』 ・ 『あなうれし』

長翠の句

常世田長翠は加舎白雄の門人。初号都久裳。別号呉水。椿海。

可都里『名録帖』に「長翠春秋庵」とある。

巣兆道彦、保吉、碩布、春鴻、葛三虎杖とともに白雄八弟の一人。

岩間乙二小野素郷吉川五明と共に奥羽四天王と称された。

 寛延3年(1750年)、下総国匝瑳(そうさ)郡木戸村に生まれる。

 天明3年(1783年)夏、白雄は呉水を伴い相模の真鶴・厚木を訪ねる。

 天明3年(1783年)8月1日、白雄は呉水を同伴して小河原雨塘を訪問。

 天明6年(1786年)、長翠は宮本虎杖を頼って戸倉へ。

虎杖庵


 天明8年(1788年)4月、海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要に参加。

海晏禅寺


夏、長翠は春秋庵に帰る。

 寛政元年(1789年)7月17日、相模七木(藤沢市高倉)に冬の日庵を設ける。

 寛政2年(1790年)9月13日、長翠と改号。

 寛政3年(1791年)8月、臼井鳥峨・飯沼可吟・臼井曉平は芭蕉句碑を建立。

芭蕉翁


長翠の書と思われる。

 寛政3年(1791年)9月13日、加舎白雄没。長翠は春秋庵を継承。

 寛政5年(1793年)、軽井沢の浅間神社に芭蕉句碑を建立。長翠書。

芭蕉句碑


ふきとばす石も浅間の野分かな

 寛政6年(1794年)、春秋庵を倉田葛三に譲り、戸谷双烏のもとで小蓑庵を営む。

 寛政7年(1797年)、江戸に戻り、建部巣兆を訪問。

 寛政7年(1795年)、『はなのつと』(鹿古編)刊。長翠序。道彦跋。

 寛政8年(1796年)4月17日、栗庵似鳩は常世田長翠の小蓑庵を訪れる。

 寛政9年(1797年)3月、戸谷双烏、亀田几外と善光寺詣でをする。

善光寺本堂


 寛政9年(1797年)11月、鈴木道彦建部巣兆は本庄訪れた。

 寛政10年(1798年)、『黒祢宜』刊行。

 寛政10年(1798年)、『芭蕉翁正伝』(竹二坊著)刊行。呉水、画。

 寛政12年(1800年)5月、奥羽行脚。酒田に滞留。白石の乙二、秋田の五明、盛岡の平角を訪れる。

 寛政13年(1801年)2月、冠稲荷神社に俳額を奉納。

寛政13年(1801年)2月5日、享和に改元。

 享和元年(1801年)、井上士朗は江戸から信州へ旅をする途中で、本庄宿に立ち寄った。

二光山赤城山見ゆる。本庄宿

雉子鳴て猫をよび込篠屋哉
   双烏

ちる花は朧烏のねぐら哉
   長翠


 享和元年(1801年)5月、奥州行脚に旅立つ。乙二亭へ招かれる。

杖を隠して乙二亭へまねかれねんころにもてなす。妻女、むすめきよ女ハ元より風流ありて筆をとる事のうつくしく、奥州の人とハおもひもよらぬと存候ほとの事なり。

戸谷双烏・戸谷朱外宛書簡

 享和元年(1801年)秋、長翠は再び酒田に至り、自筆の句碑を建立。



苗代の筅葉(ささらは)くろし后の月

緑葉や実生の松は鏡哉

 享和元年(1801年)、秦寛之は若宮八幡神社に芭蕉句碑を建立。椿海長翠書。



あの雲ハ稻妻を待つたよりか南

 享和2年(1802年)、小蓑庵を中村碓嶺に譲り、酒田に移住。浄徳寺の門前に胡床庵を結ぶ。

  道筋の途中で白石の乙二の許を訪れ、共に塩釜に出かけた。

 享和3年(1803年)9月、蚶満寺加舎白雄の句碑を建立。

 文化元年(1804年)2月、蚶満寺の白雄句碑前で追悼会を行う。

 文化7年(1810年)、武曰は酒田の長翠を訪れ冬日庵の号を得る。

文化10年(1813年)8月12日、64歳で亡くなる。

酒田市の浄徳寺に墓碑がある。

坂本に長翠の門人中村碓嶺、武井三十郎がいた。

坂本宿上木戸


武井三十郎は三亀亭舞仙と号する俳人。

文化11年(1814年)3月12日、道彦の十時庵で捻香。

文化13年(1816年)、『あなうれし』碓嶺編)道彦序。長翠追善句集。

文政元年(1818年)、酒田の春秋庵連中は長翠の句碑を建立。



人の柳うらやましくもなりにけり   長翠

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