服部嵐雪



『杜撰集』(装遊稿)

 元禄13年(1700年)、服部嵐雪が江戸から東海道を行き、吉田から舟で伊良古崎を経て伊勢に参詣、京へ行って都を見物したときの紀行。

大井河近き島田の宿に年頃漂ひ遊ぶ僧の侍りけり。世の中を用なき物に思ひ取りて、宿へ行くにも戸を打明て出歩行ける。一日如舟に誘はれて、留守の程伺ひ入て、昼寝して帰りて後、申遣しける。

   やすき瀬を人にをしへよ杜若

吉田の宿に日暮れたり。橋の許まで行たれば、舟よ舟よと呼ぶ。何方へ乘る事ぞと聞けば、參宮の同者、爰より乘れば白子川崎と云所へ着て、陸には三日早しと云。身を持つ者の、危き海路はいぶかしとて、行過るもあり。元より繋がぬ舟の、斯る便宜に知らぬ國里も見ばやと思ふ心つきて、苫の中さし覗きたれば、三四十人乘込たり。

沖にたゞよふこと半日ばかり、のりを考るに五十里も侍らんといふ。漸空しづまりて皆いき出たり。鷹ひとつ見付てと、ばせを翁の申されたる所なれば、なつかしく立あがりて、

   藤浪にみさご(※「舟」+「鳥」)は得たりいらこ崎

けふは二見の御塩をはこぶ日なりとて、内外の神垣もことにすみわたりおはしましたるに、山田が原のほとゝぎす、ゑりのもとに落かゝりたり。

   こゝろには松杉ばかりほとゝぎす

義仲寺の師父の廟は、芭蕉しげり芭蕉破れて、七とせの露霜を送り迎へ、苔生ひ給へり。

   色としもなかりけるかな青嵐

伏見にて、

   明てのゝ家に伏見や夏の月

千本を南へ、四塚の辺(ほとり)へ行くとて

   島原の外も染るや藍ばたけ

京よりから崎へ詣るとて、しがの山越はするとなり。

   志賀越とありし被(かつぎ)や菊の花

のゝ宮にまいりて、

   嵯峨中のさびしさくゝる薄かな

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