姨捨の山の月かげあはれさにうしろにおひてかへる迄見む
| 四方歌垣
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長楽寺を下っていくと、今度は「名勝指定地説明板(四十八枚田地区)」があった。
「四十八枚田は、姨捨の棚田の中でもっとも早く成立したとされ、『田毎の月』という呼び名も、もともと四十八枚田に映った月を指すといわれます。」と書いてある。
明治19年(1886年)、野口有柳は素竹と姨捨に遊ぶ。
大正15年(1926年)9月25日、荻原井泉水は「『更科紀行』の跡」を訪ね、「田毎の月」のことを書いている。
姨捨の月を田毎の月とも称するのは、このだんだんの田の一つ一つに月が映るのを賞したものだという。尤も、名月の頃には田に稲があるが、昔は殊更に刈取って、水をたたえて月を映したものだそうな、当地は八幡神宮寺別当の所轄で、年貢などは念頭におかなかったためであろうとの住職の話だけれども、それが事実ならば、ずい分不生産的なことをした訳である。
昭和12年(1937年)9月8日、与謝野晶子は戸倉上山田温泉に泊まり、翌9日に長楽寺を訪れている。
更科の田毎の月を千曲川あはせて流るたとへて云へば
『白桜集』(千曲川)
昭和42年(1967年)、山口誓子は姨捨を訪れている。
山田温泉へ。
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